『現代社会の存立構造』感想 | 物象化から読み解く現代社会

真木悠介&大澤真幸の『現代社会の存立構造』は、私が高二の夏に読み始めて、何度も中断・リトライを経て、ようやく大学一年の夏に完読した本だ。何度も挫折しながらも読んだ甲斐のある、すごい本だった。前半の真木論文もさることながら、後半の大澤解説も非常に秀逸だった。

この本では、『資本論』の物象化の論理に着目して、現代社会の存立が説明される。

(物象化とは、貨幣などの超越的な価値の存立を説明する論理である。貨幣という社会内部に存立根拠を持つものが、逆に人々や社会を支配する「神」となれるのはどうしてか?物象化とはつまり、社会関係が物として自立し、人間を支配するように現れるロジックである。(cf.価値形態論))

古代の共同態においては、各個人は平等=水平的関係性にいた。しかし対自然・対他集団のなかで、交換の回路・手段性の回路を複雑化・自乗化させることで、垂直的分業をするようになる。個人単位の交換が発達することで、各個人は共同体から区別された対社会存在として、真に「個人」となる。そして交換の媒介として物象化されて貨幣が誕生する。

各個人が水平的な分業をする近代で、やがて労働力の売買を経て、労働者/資本家と階級分化が進み、垂直的関係が胚胎される。企業において資本が物象化される。さらに競い合う企業の水平的関係から、経済法則が物象化される。

物象化は経済(価値の体系)だけではなく、政治(役割の体系)、文化(意味の体系)でも当てはまる。それぞれで物証化された価値として、経済では貨幣・資本、政治では権力、文化では科学が対応するのが現代社会である。

資本主義における「負け組」は、貧乏として、貨幣から疎外されている。対して、「勝ち組」は貨幣を十分に持っていて、あたかも万能の勝者かのようでいる。しかし、「勝ち組」も「負け組」も実は貨幣へと疎外されている。「勝ち組」「負け組」という区分そのものが、物象化された価値体系の内部にいる者同士の区別にすぎない。貨幣をたくさん持っている勝者は、実のところ貨幣に跪いている「下僕」である。

人々は、システムへ従属する主体(subject)として、主体化=規格化されている。

近代・現代において、人々は、Xという価値評価システムから疎外される前に、つねにすでにXへと疎外されているのだ。(Xには例えば、価値・役割・意味などが当てはまる)。

ここまでが真木理論の話である。さらに大澤さんの解説では、このXへの疎外をさらに深く追う。

しかし、「Xへの疎外」(「価値への疎外」「役割への疎外」など)が成立する必要条件として根底にあるのは、「ひと」が何を望んでいるか分からないことへの不安である。つまり「XのX自身からの疎外」がある。

人々のそもそもの目的であった価値や役割や意味は、完全に定義・指示することができない。そもそもの目的が不完全である。だからこそXへの疎外は有効に働き続けることができる、という逆説がここにある。

Xという目的がそもそもよく分かっていない。だからこそ、これを埋め合わせるために、人々はまさに「神経症的」に活動する。本源的欠如に対する、無意味な行動の反復として、欠如を埋め合わせようとするのだ。

これはウェーバーの「プロ倫」における議論ととてもよく似ていると思う。それは、神の意志を知ることができないプロテスタントが、神経症的に労働をして貨幣を得ることを自己目的化させることで、資本主義の定着へと大きな役割を果たした、というロジックだ。

Xからの疎外には、実は三段階の疎外が隠れている、と大澤さんは指摘した。

しかしこれは、よく考えてみれば、ジャック・ラカンの欲望の構図と全く同型ではないだろうか?

ラカンにおいては、人々の持つ欲望とは「欲望への欲望」に過ぎない。曰く、誰かが何かを欲望している時、その欲望される「何か」を価値あるものと捉え、その「何か」に同化したり、「何か」が欲しくなる、という構図こそが欲望の根源である。

しかし他者が本当は何を欲していたのか、自分は何を望まれていたのか、は完全にはわからない。だから人は自分の欲望に完全に一体化することはできない。つねに、「これは本当に私の欲望なのか?」という懐疑がつきまとう。その欠如を見て見ぬふりをするために、主体は自分の欠如を永遠に埋め合わせることができないまま、次から次へと自分の「補完物」を求めてさまよい続ける。逆説的に、「欠如こそが欲望の根拠である」と言える。

このようなラカンの理論を踏まえれば、3段階図式は当たり前のこととして理解できる。疎外とは、外部のよそよそしい存在へと私の欲望を預けることであり、他者の欲望をその存立根拠に置いているのだから、近代に特徴的な「Xへの疎外」を語る大澤の論法がラカンと似るのは当たり前である。(実際、大澤が「大文字の」という時、「大文字の主体」の概念が念頭にあったはずだ。)

自然・社会・個人を経て、マクロな社会構造だけでなく、ミクロな実存や意味の構造・変容までをもカバーする真木&大澤の理論はすごく刺激的だった。

個人的に真木悠介(本名・見田宗介)の著作が好きで、これまでに数冊読んできたが、それらの理論の根底での繋がりが見えておもしろい。ほかの見田の著作(特に新書など)はもっと読みやすいから、私としてはまずはそちらを読むことをオススメする。

見田宗介最高だぜ👍

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする


目次