ライブ会場で泣く人はいるが、美術館で泣く人を私は見たことがない。
「なぜ絵よりも音楽の方が感動するのか?」
そんな問いを考えていたら、ある時、電車の中でふと一つの仮説をひらめいた。
手がかりは、二要因説と自由エネルギー原理(FEP)。
完全に私の思いつきだが、部室で話してみたら意外とウケがよかったので書き留めてみようと思う。
そもそも感情とは何か?
「そもそも感情とは何か?どのようにして生じるのか?」。この問いに対しては、従来2つの説明の仕方があった。
1つ目。感情は、脳で生じる。それが神経を伝って全身に広がり身体反応を生む。楽しければ笑うし、悲しければ自然と涙が出る。常識的な、ごくありふれた考え方。『中枢起源説』と名付けられた。
2つ目。感情は、身体で生じる。こんな話を聞いたことはないだろうか?「割りばしを横に咥えた状態で、口を笑った形にしておくと、おもしろさを感じやすくなる」。悲しいから泣くのではない。泣くから悲しい。楽しいから笑うのではない。笑うから楽しい。……ひねくれものの考え方。『抹消起源説』と名付けられた。
これらの仮説は相反する。身体反応と感情のどちらが先にあるのか、という点で逆の意見だからだ。では実際にどちらが正しいのか?
現代的な回答は「二要因説」である。感情は、身体の反応と解釈の両方に依存する。なんとも平凡そうな解決、とけして落胆するなかれ。
二要因説をわかりやすく説明するために、この仮説が実証された実験について話そう。
ある日ある時、実験参加者が一斉に集められた。彼らは3グループに分けられる。1つ目のグループには、各自にアドレナリン(心拍・血圧を上げる物質)が注射される。しかしその説明は、薬の効能を誤解させるためのデタラメなものである。2つ目のグループでも同様に薬が注射される。今度は、医師からはアドレナリンについての正しい説明がされる。3つ目のグループは対象群だから、何の効果もない偽薬が与えられる。
さてこの状態で実験は始まる。実験内容はたいしたことはない。ただ皆が集められて、実験のサクラが人々の怒りを煽り立てるような言動をする。被験者はどうなったか?
1つ目のグループは大いに怒った。2つ目のグループはたいして怒らなかった。3つ目のグループも同様。
ここから何が言えるか?1つ目のグループと3つ目を比べてみる。どうやら身体内部の「状態」が「怒り」に関係しているらしい。この点で抹消起源説は正しい。一方、1つ目と2つ目の比較からは、湧き上がってくる身体反応に対する「解釈」が「怒り」に影響しているらしい。正しく薬の効果を認識していた人々は「頭に血が上るのは薬のせい」と思ってあまり怒りを感じなかったのだろう。この点で中枢起源説は正しい。
結局、抹消起源説と中枢起源説はどちらも(部分的に)正しかったのだ。感情を惹起するトリガーは、身体反応と解釈のセットである。これが『二要因説』だ。
二要因説に関するほかのわかりやすい例は、(恋愛における)「吊り橋効果」だと思う。吊り橋の高所にいることに由来する恐怖感・ドキドキという身体反応を、隣にいる異性に対するドキドキだと誤って「解釈」することによる、恋愛感情の高まり。実におもしろい。
こんな誤った解釈が生じるほど脳みそがガバガバなのはなぜかというと、それは脳が世界を直接に知覚できないからにほかならない。脳にとっては神経によって送られてくる電気信号がすべてだ(「ボルツマン脳」というお話があるくらいですから)。
視覚されるものが本当に存在しているのかはわからない。単なる見間違いかもしれないし、感覚神経のノイズかもしれないし、幻覚かもしれない。それでも、そのリアリティを確かに感じ取れるのは、これまでの学習とほかの感覚器官からの同様の報告があってこそだ。
そのような各神経による報告から、脳は推論によって外界の状況を判断する。「外界」とは言ったが、それは「脳にとっての外界」であり、身体内部も同様だ。ベイズ統計的な処理を行うことで、何が起きたのかを推定する。
脳とは畢竟、推論のエンジンである。
さて、話が長くなったが、ここらでゴールが見えてきた。「二要因説」、「吊り橋効果」。
音楽で人が感動するのは、音=空気の振動によって、「心震える」ような身体の揺れを、「私はこの音楽に感動しているから今からだが震えている」と「誤解」するからではないのだろうか?
……これなら、絵よりも音楽の方が感動しやすいことに、説明がつく。
仮説を深掘ってみる
ここで自問自答してみる。
いやでも音楽がただの振動だとしたら、それは味気なさすぎる。第一、その理論に則るならば、ひたすらフォルテッシモで低音をドンドン響かせていればいいじゃないか。フォルテッシモで振動がやたら響く音楽は、工事現場の騒音と何が違うのか?ときにはか細いヴァイオリンの音色、最後の小さなピアノの単音に感動することだってあるじゃないか、と。
逆にこれに反論してみる。
つねにフォルテッシモにすべきでないことには同意。でもそれは「対比」の効果を生かすためで、小さな音が感動を生むのも要は対比なのではないか?
脳科学には自由エネルギー原理(FEP)という理論がある。主張は簡単で、「こうなるはずだ」という予測状態と、現実の状態の差分を小さくするように、ひたすらフィードバックループを繰り返すことを通して、人間の感覚・学習・運動までもが司られているという理論である。さらに、この差分が大きいものほど、注意をひきやすくなる。
そう、予測との差分。常に音が大きいと、だんだん脳も適応してくる。その予測を裏切ることを通して、注意は最大化される(アセチルコリンで注意は極大化される)。だから対比は適度に埋め込まれなくてはならない。
演奏が工事と異なるのは、当然「解釈」の違いもあるが、心地よい音・気持ち悪い音が区別されていて、音楽では感動へと解釈を誘導するようにそれらの音が組み上げられているから、といってもいいように思う。
さらに別様の反論も想定できる。「私は小説で感動することがよくあるが、言葉による感動は君の理論からでは説明できない」と友達に言われた。鋭い。
でもこれには「あたかも身体ループ(as-if body loop)」が答えてくれるように思う。言語の知覚は、その実、記憶やほかの感覚器官を参照しているのだ。
記憶器官である海馬は、実際はデータの保管場所ではない。そうではなくて、海馬は記憶に番号を割り振る場所にすぎない。それを各感覚器官が、メディアプレーヤーとして、シミュレーションすることを通して「思い出す」のだ。
記憶とは再演にすぎない。
言葉を使う時も。人間が小説などを読み、文字情報から感情をゆすぶられるとき、脳は海馬にアクセスして過去の記憶を呼び出しう、「実際にその体験をしているかのように、感覚やや自律神経系を疑似的にシミュレーションしている。言葉自体には振動はない。が、言葉は各感覚器官を起動することを通して、「まるで身体が揺すぶられているかのような」生理状態を、脳内に内発的につくってしまうのだ。だから、言葉は、仮想的な振動を持つと言える。
こうしてみると、音楽を異なるレベルから読み解けるようになる。さまざまな体験を分類的に記述できる。
①音楽(物理的な直撃)
空気の振動が鼓膜や体内の臓器・器官を振動させることを通して、感情をハックして、即自的な感動を引き起こす
②言葉(仮想的な振動)
記憶の再現・感覚器官のシミュレーションを通じて、感情をゆるやかに呼び起こす。ただし脳内シミュレーションはそこそこコストが高く時間もかかる
③絵画(全体性の俯瞰)
絵画は一目で全体を見て取ることができる。物理的な揺れはなく、言葉のような線状性・時間性も存在しない。記憶の再現・仮想体験も引き起こしうるが一瞬で終わってしまう。
このような分類・整理が可能なのではないだろうか?
(ただし、各分類についての説明は私自身の経験に基づいて考えだしたものであり、おそらく正確ではない。検証に耐えうるほどの強度はもっていないことに注意してほしい)。
音楽にはメロディと歌詞、①と②の領域があると考えていいだろう。
よく美術館や展覧会にも行くが、絵においては感動というよりは感嘆、ボトムアップ的な身体反応の高まりではなく、やはりどうしても解釈・脳による理解が感情に先行してしまう気がする。空間に固定された絵画が知的な感嘆を生むのに対し、時間と物理振動で身体をジャックする音楽が涙の出る感動を生むのは、このようなメカニズムの違いにあるのかもしれない。
さて、以上が私の仮説と考察だ。もともとの問いは「なぜ絵よりも音楽の方が感動しやすいのか?」だったが、答えとして十分納得いくものを提示できただろうか?
絵・視覚情報についての分析はまだまだ欠けていると言わざるをえないかもしれない。私自身も絵を描いている身としては、絵画の可能性もいずれ深堀してみたい。
いずれ、私は人を感動させる絵を描きたい。
ならば展示会場にアドレナリンを散布するか、ゆっっっっくり時間をかけて展開する絵巻物をつくるべきなのかもしれない


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