「スタイルがない人間は、みじめだ。」
この言葉に出会ってしまったのは高一のときだった。それからずっと、たまに思い出す古傷みたいに、この言葉が埋まっている。
なんでこの言葉を今思い出したのか?
必要になったからだ。スタイルが。創作活動を続けていくうえで。美術サークルに入ったのが4月、それからいろんな先輩の独創的な作品を見てきた。 独創的であればいいというわけではない。そもそも「オリジナルになる」というのが語義矛盾である。せいぜいが作為の演技に過ぎない。おそらくはただの奇を衒った身振りに成り下がってしまう。
高一のときからずっと、スタイルについてぐるぐるぐるぐる考え続けている。スタイルはキャラとは異なる。キャラは、「ある特定の集団内で」割り振られる役割だからだ。基本的に人間の仲良し集団は小規模で、そのなかではキャラ被りが生じないように属性が分けられている。スタイルはアイデンティティとは異なる。アイデンティティは、例えば「〜大学卒」「男」「左翼」みたいな、確定記述を含むからだ。それは、広い意味での所属(の積算としての唯一性)である。
ではいったい、スタイルとは何か?
まず、①スタイルは現在に関わるものだと思う。行為の一瞬にのみ存在している。どういう判断をするか、どういう態度で臨むか。それは「かつて〜だった」というような、来歴や所属とは関係が無い。②スタイルはオリジナルたりえない。唯一じゃない。たとえば、いくつかの選択肢がある状態で、ハイリスクハイリターンな選択肢を取るか、ローリスクローリターンな選択肢を取るか、何も考えずに目の前にあるものに突っ込むか、保険をかけた上で熟考するか、考える態度というものは何通りもありうる。それでも、何通りかでしかない。だから被りはほぼ絶対に生じる。(もしスタイルがオリジナルだと言うとしたら、それはスタイルそのものではなく、スタイルとその状況や対象をも含めたときの唯一性にすぎない)③スタイルは構築される。スタイルが結局、問いに対する向き合い方なのだとしたら、どんな判断を採るかはその人の過去に影響されている。ある決断をした結果、次も同じような決断をしやすく/しにくくなるかもしれない。小さなひとつひとつの決断は制御できる。意図的な決断を積み重ねることによって、判断の傾向をつくることはできる。
スタイルの構築に欠かせないものは何か?あるいは、対概念としての「スタイルが無い」状態とは何か?
スタイルが無い状態は、毎回デタラメな判断をする傾向、一貫しないという傾向が見出される場合だ。プラス、自分のなかに確たる傾向を見いだせない場合は、スタイルが存在するか「分からない」という回答になる。
スタイルを築くには、私は賭けが必要だと思う。「私はこうだと思う」と言い切ること。断言、背水の陣。自らの責任で自らの言葉で語ること。
賭けとは命懸けの跳躍だ。賭けが無い人はスタイルが無い。なぜなら、賭けないことは、無難な回答に逃げること、責任を非人称的な次元に押しやること、応答可能性を無視して決断を受動的なものにすることだからだ。受動的な決断で主体性が築かれえないと考えるのは自然だろう。
賭けのなかで、「私」は生まれる。それは「私は”私”である」という固定的実体としての”私”、アイデンティティ的な私とは異なる。「私は”これ”である」と絶えず証明していくことだと思う。つまり、コンスタティブ(事実確認的)な運動ではなくて、パフォーマティブ(行為遂行的な)自己証明こそが、スタイルである。
そう考えたときに、スタイルを構築する方法はいくつか考えられる。まずは自分なりの判断軸を持つこと。そのためには自分の過去や無意識を探索してみるのもいい。自分のこれまでの決断を吟味して、隠れた判断基準を見つけ出すのもいい。誰かに憑依されたように行為するのもよい。
スタイルとは畢竟、ライターにとっての文体のようなものだ。被りはあるし、反復することで見出される傾向である。
だからライターが文体を獲得する方法を参考にするのは無駄ではない。いくつかパターンがある。
まず、そもそもオリジナルな文体を持っている場合。いわゆる天才。こういう人と話してみたい。とても珍しい。その他は、みんな自分なりの文体を確立した人達。いろんな文体で、まず書いてみることを通して作られた。ある作家に「憑依されたように」書く時期は必要だ、とも聞く。だから最初は誰かのスタイルを徹底的に真似てみることも必要かもしれない。逆に、制限してみる、ということも有効。ある言葉を使わないこと、「選ばないという選択」もまた可能だ。
ここまででスタイルに対する一般論はだいたい語り終えた。だから今度は、私が賭けるターン。
なぜ今更、スタイルなんて概念を考えているのか?芸術系のゼミに入ったことがきっかけだ。私は私の創作について考え直さなければならない。それは美術サークルで他の人の作品に触れる機会が多くなった最近、ずっと考え続けていたことでもある。
私には「熱がない」。メタ認知が得意で、ギャンブラーなように見えて実際は保険をかけている。これが率直な自己判断。だから決断に完全に同一化することができないし、いつも、「この決断は間違っていたんじゃないか?」と考え続ける。架空の出題者の正解に過剰に自分を合わせようとする。それは創作の上では絶対的な不正解だ。
どうしようか?私は、これもひとつの賭けとして、回答を提示しなければならない。
必要なのは「あえて」の発想だと思う。
選択肢のなかから、「あえて」普段選ばないものを、馬鹿げたものを選んでみる。それはこれまでの無難な選択に対するアンチテーゼであり、かつての「私」をアップデートする。
例えば、帰り道にあえて一駅先に降りてみる。例えば、あえて全く知らないを本を読んでみる。例えば、あえて完成した絵に取り返しのつかない線を入れてみる。
たぶん保険を掛けずに何かをするとか、没我的な経験とかは、普通に生活している限り無理だと思う。
世捨て人になる覚悟とかがない限り(世捨て人になったとしてもメタ視点は消えないけれど)。で、たぶん僕はそこまではできない。
日常のなかで、創作の中で、できる範囲で探した結果がこれだった。確かにスケールはダウンしてる。
だからちょっとは妥協してるのは認めなければならない。それでも、純粋に賭けることはできないが、ひとつ選択を変えてみる、というのはちゃんと実践になりうると思う。
それでも、なぜこれが有効なのか?無難=受動的な選択に対して、特異=能動的な選択として、反照的に「私」の傾向を浮かび上がらせるからだ。差異がないと私の輪郭はわからない。
(ちなみに、風呂が気持ちいいのは、お湯の温度が身体の温度より高く、普段意識しない皮膚感覚が刺激されるかららしい。その点で風呂は私の形を思い出させる。)
単純に、新しい経験に触れて、新しい感性の材料を得ることができるから、という向きもある。
でもこれは演技とは何が違うのか?「あえて」とは作為の身振りではないのか?という問いもあろう。しかし演技と違うのは、ひとつの作為的な決断によって、もうどうしようもないところまで自分を持っていってしまうからだ。「あえて」には俯瞰する余裕こいた視点は無い。
あるいは必要なのは対話かもしれない。イエスマンじゃない人との、コントロールできない対話。なかなかそんな機会が無いのは残念だが。
できるからには、やってみる。実際問題、保険をかけずに生きていくことは難しい。それでも、小さな範囲で、やってみる。実験してみる。繰り返す。そうして決死の跳躍の果てに、気づいたらブレない私のスタイルは身についてしまっているのではないか?
生まれたからには生きてみる。この視点で、行動してみたい。


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