『あぶない法哲学』感想 | 法の前提を遡る

法と正義はそもそも別物だ。そんなことを高校の公共の授業で知った。先生が破天荒だったからかもしれない。「あなたの常識は本当に正しい?」と刺す授業はおもしろかった。

『あぶない法哲学』はその先生がおすすめしていた本だった。大学1年生になって、3年越しに手に取ってみた。

読みやすかった。法哲学、法を扱う哲学なだけあって、倫理学などとも強く繋がる。私としては、かつて考えたようなトピックについての総復習みたいで最後まで滞ることなく読み切れた。(時事ネタはあと数年すれば賞味期限切れになってしまうかもしれないが笑)

法と正義は別物である。もちろん共通範囲は大きいが。法哲学は、法と正義の狭間に切り込む思想である。「あぶない法哲学」は、そのグレーゾーンをとことん潜り、結局「なにが許容されるのか?」「なにが許容されないのか」に線を引こうとする思想である。

法は善人にも悪人にも活用されうる。どれほど卑怯な悪人であろうとも、法に従う限り法的に罰されることはないし、勝手に罰してもいけない(私刑の禁止)。だから、法は「善人」からの顰蹙を買うこともある。

全ての主権国家で(一応、建前上は)法が策定されている以上、法の有用性には疑い無い。が、「なぜ法が有用か?」という問いと「なぜ法は正当か?」という問いは別だ。そして法の正当性を前提づける理論には穴がある。

自然法思想と法実証主義の論争。自然法思想では、普遍的な善を法の正当性の前提とする。「人を殺してはいけない」は全人類で普遍的な掟だ。一方で法実証主義は、そもそも法は国家によって定められたルールに過ぎず、法律の正当性と道徳的正しさは別物だと考える。国会で正当な論議と議決を経て採択された法律だからルールとして正しい、という考え方だ。

自然法と法実証主義は、完全に排他的ではないが、相容れない部分もある。そもそも自然法が前提とする「普遍的倫理」なるものの実在が示されていない。法実証主義は、「ルールとしては正当だが倫理的には正しくない」法、つまり法が暴走する可能性を否定しない。

法の正当性の根拠の揺らぎは、大問題だ。法律と善悪の乖離してしまった世界がいかに危ういかは想像に難くない。

その帰結は、象徴的には『ジョーカー』のような、自己救済の感情だと私は思う。この不安には根拠があるが、その言説は現実との接地点を見失う。この自己救済感情は暴走しうる。

だから法と倫理の前提を探る試みが必要だ。

もし法に倫理的根拠を求めたいなら。あるいは、法と倫理の共通部分を大きくしたいなら。法の前提・倫理の前提を遡る必要がある。倫理を基礎づけるのは、究極的には、我々人間の生物としての物質的側面である。

結局、その問いは、人類学や生物学に辿り着くのではないだろうか?

真木悠介さん(本名・見田宗介)の、『自我の起原』というおもしろい本がある。副題の「愛とエゴイズムの動物社会学」の通り、動物の社会の前提を遡ることを通して、「愛」・「絆」・を前提とする人間社会、を捉え返すおもしろい試みである。

ドーキンスに言わせれば、「生物は遺伝子の乗り物にすぎない」。その生物間で協力ができるのは、(さらに多細胞生物が単一の意志を獲得したのには)、遺伝的・唯物論的なロジックがある。

人間社会の倫理の根源にあるのは(アダム・スミスやルソーの言う通り)、絆や共感性や共同身体性である。しかし「あぶない法哲学」を推し進めるなら、さらにその「絆」の前提にまで遡るべきではないか?

(ちなみに共同身体性・共感性を基礎づけるかもしれない存在として、他者の行動を自身の運動神経とリンクさせる、ミラーニューロンが発見されている。哲学的に言えば鏡像認知と関係する。)

その原始的な倫理に基づく具体的な社会形態を調べるのが人類学だ。宮台さんによると、狩猟採集社会において人々が依拠していたのは、仲間意識 × 生存戦略だった。それが生産力と人口の増大した農耕社会においては、ダンバー数を上回り、仲間意識が通用しなくなった。そこで集団を統制するものとして、法がつくられた。

逆にこのとき、仲間意識と連帯感情による「自然な」ルール(=掟)と、損得勘定による集団的ルール(=法)が分離してしまった。

法がトップダウン的なルールだとしたら、倫理はボトムアップ的なルールなのではないだろうか?そんなことを最近は考えている。

中間共同体の解体・過剰流動性・価値観の多様化の現代において、法化は進む。建前だったはずの法がむしろ実質として内面を規定する状態が、すでに来つつある。法と倫理の融合には、逆に法に背くことが求められる。こう言ってはおかしいだろうか?

掟が法の外部にあることを認識し、法的正しさと倫理的正しさを別々に扱うこと。法と掟の二重性に基づいて、それぞれを相補的に運用することこそが、ミクロのレベルでできる唯一の解決策なのだろう。

市民的不服従などは、法と倫理の緊張関係を可視化し、法を倫理へと近づけるための試みだろう。法化の帰結は、法の前提の破壊である。

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