社会は理不尽だ。常に「あなただけの夢」を持たなければならない。生まれた時点では全員が同じ能力を持っているはずなのに平等じゃない。世界は広いが孤立している。この無理ゲーはどうやって作られたのか。
その無理ゲーの現実を解説したのが『無理ゲー社会』(著・橘玲)である。この本によると、リベラル化(自由主義化)が進んだ結果、私達の人間関係が変質したらしい。友人などとの貨幣抜きの関係性が縮退し、かわりに金銭的な関係性にアウトソースされた。人々は自由に生きる権利と義務を課せられた。①世界の複雑化②中間共同体の解体③自己責任の強調がリベラル化によって引き起こされた。これによって社会のルールはどう変わったのだろうか。
天は人の上に人をつくる。人の下にも人をつくる
本性的に個人主義であるリベラル化によって能力主義も進んだ。能力主義は諸刃の剣だ。
努力は個人の自由な選択であり、この能力主義は能力による人の区別だから公平だ。自分自身対してに責任を負うのは当然だからだ。個人が自由に選択できない要素(人種・性別・国籍など)で人を差別することとは異なる。だから適切だ。……私達は無意識にこう考える。人々は努力量に応じて多くの利益を得るべきだ。わたしもそう考えていた。
でもこれこそが能力主義のイデオロギーなのだ。
私達一人一人はそもそも異なった存在だ。生まれた時点で「才能がない人」「勉強ができない人」がある程度決まっている。……これこそが能力主義が隠している側面だ。リベラルを覆しかねないからこそ、この話は優生思想と結びつけられ封印されてきた。しかし近年の行動遺伝学などがこの問題を明らかにしつつある。
いくつかの不都合な真実が浮かんできた。例えば、知能格差はその一つだ。親の知能は約7割遺伝する。さらに言えば「やる気」や集中力も遺伝する。遺伝以外の要因として次に大きいのは、友達関係などの家庭外環境で、家庭内の影響は無力に等しい。
「誰でも努力すれば、頭が良くなる」。
国際成人力調査によると、日本人の1/3が日本語が読めず小学3~4年生程度の数的思考力しかない。気づかなければならない。努力と能力が比例するという主張こそ、リベラルな世界を支える最大の神話だ。性別、人種、国籍などの生来の属性で人を判断することは差別だ。知能で人を判断することは?
教育はどうなのだろうか。教育で知能は改善できるのではないのか?
できるかもしれない。しかし逆に教育は知能格差を拡大しうる。
例えば、「四月効果」をご存じだろうか。四月・五月など生まれが早い方が有利であることが知られている。その一時的な原因は、同じ学年に割り振られた3月生まれと4月生まれの人では一年の経験・成長の差があることに由来する。できる人により多くの機会が与えられることで、その差が二次的に増幅される。これによって「生まれが早い方が有利」という状態は持続する。
同様の「持てる者はさらに与えられて豊かになり、持たざる者は持っているものまでも奪われる」現象はマタイ効果と言われる。四月効果はその一例にすぎない。
教育にも同様のことがあてはまる。知能を上げようとして教育に予算をつぎ込むとき、どこにリソースは配分されるのか。社会は功利的に、勉強ができる人(すなわち「遺伝ガチャ」のあたりの人々)の才能を伸ばそうとするだろう。これでは逆に格差は広がるばかりだ。才能が遺伝によって決まっているのなら才能に富んでいるものが社会に再分配すればいいのだが、それは遺伝的特権層と遺伝的犠牲者層を分断する。
とはいえ生まれた瞬間にすべてが決まっているわけではないことは付言しておく。私達にできることは、せいぜいこの事実を受け入れ、自らの手で未来をある程度切り開くことだ。できる領分でできることをこなすしかない。
公正世界信念による陰謀論
近年、アメリカの白人労働者階級の「絶望死」が増加している。絶望死とは、死ぬまでアルコールやドラッグにおぼれたり、自殺だったりする。そしてその絶望死はプア・ホワイト(さっき述べたような低学歴白人層)で4倍近くになっている。彼らは長期的に機会が奪われたことに絶望している。それは働く機会であり、結婚する機会であり、幸せになる機会だ。「自己責任論」はこれをさらに苦しめるだけ。そしてこの状況が陰謀論を生む。
興味深いことに、いわゆる白人至上主義者の主張は、単に白人が優越人種ということでない。彼らの言うことはこうだ。「白人は差別されている。白人から機会が奪われている。」と。絶望死と同時並行的に増加する陰謀論。例えばQアノンという陰謀論は、世界は闇の政府(ディープステイト)に支配されているという。選挙は盗まれたと言う。その結果が議会包囲事件だ。これらの事態はどこから始まったのか?
その前に、そもそも人はなぜ陰謀論を信じるのか?
私達は人が理性的な存在だと信じているが、私達人間はずっと数百万年を神秘的・呪術的陰謀論の世界に生きてきた。だからそもそも人間は陰謀論で思考する生き物で、陰謀論を信じる方が「普通」なのだ。(さらに起源をさかのぼるなら、いくつかの情報に関連性を見出して知識としてストックした方が生存上有利になった、という進化論に帰着すると思う)。
陰謀論と関係のあることとして、人は世界が公正であってほしいと願う。公正とは社会が秩序立てられていることで、社会心理学ではこれを公正世界信念と呼ぶ。
公正世界信念は良いことに思えるが、それすなわち他者の不道徳を正そうとすることでもある。だから「不公正だ」と感じる事実があれば何とか公正世界を保つために自分の認知を変える。事件の被害者がネットで断罪されるのだって同じだ。被害者に責任を押し付けることで、世界は「公正」に保たれる。
そして実は世界は巨悪で蝕まれていて、自分自身が公正な世界を守るための「善の戦士」でいると想像し、不可解な世界に秩序を求める。公正世界を取り戻す。これが陰謀論の、認知の変えることの効果だ。
このことに関連してわたしが注目しているのは、商業漫画やラノベなどの「復讐物語」の拡大だ。最近、①無垢でか弱いイノセンスな「私」が、②悪徳な権力者に貶められたので、③「チート」や「隠していた力」などの急激なパワーアップで、④直接的な暴力やその他の方法によって、⑤敵を苦しめて名誉を回復する、という構造の物語がすごく増えている。これだって公正世界信念の一つの表れだ。陰謀論と同型だ。秩序だった世界の物語を描くことで、認知を捻じ曲げ、カタルシスを得ている。(これほどまでに「復讐物語」が増えたことには、やはり陰謀論と全く同じ社会的な不安があるのではないか、とわたしは思う)。
陰謀論の他の効果は脅威の排除だ。心理実験により「人はプライドを高めようとする。しかしそれができないときはプライドが気づつけられるのを必死で避ける」ことが示されている。だから今まで蔑んできた黒人よりも自分の地位が低い事実に納得がいない白人の「被害者」は、認知を変えてプライドを守り、公正な世界を守る。これが陰謀だ。

格差のディストピア
次は「格差」についての話だ。
リベラル化が進み、恋愛市場も変わっていく。自由化が進み、女性も経済的自由を手に入れる。すると女は男を選べるようになる。男は競争する。女もよい条件の男をめぐって競争する。
生物学的な観点から言うと恋愛とは「男が競争し、女が選択する」システムそのものだ。これは性差に由来する。女性は子供を産むコストが高く、男は低い。だから最適な生存戦略としては、男は多くの女を求めることで、女はより長期的な支えとなる男を探すことだ。(そして人類はこのことによって男性優位の社会を築き上げた。文化人類学における「女の交換」だ。本筋からは逸れるが、内田樹さんの文章がおもしろいのでぜひ読んでほしい。)
現代になって、競争が純化されることでその本質があらわになった。逆に言えば、家や村などの中間共同体がまだ生きていた頃は、それは一種の「女の配分」(嫌な言い回しかもしれない)として働く制度だったと言える。お見合いや、政略結婚など。結婚制度はその文化的な定着度からしてその最上級である。
現代の性愛市場の枠組みからはみ出たもの(経済的にも、その他の点でもアドバンテージがなかったもの)は、絶望的にモテない。モテないということは承認を得られない。彼ら(主に男性)は経済格差の犠牲者であり性愛格差の犠牲者だ。
べき分布状の格差
資本主義は夢をかなえるシステムだ。事業の資金調達は負債と資本によって賄われ、その運用益から負債は賄われる。すなわち未来から前借りでで、無一文でも資金調達ができる。こうした仕組みで資本主義は才能ある起業家の野望だけでなく人の夢をかなえてきた。資本主義は能力主義の体現者である。その良い点は挙げるまでもない。
しかし現代、富の分布はべき分布の世界になっている。つまり一握りの並外れた成功者とその他大勢の低所得者で人口分布は構成されている。富の分布は正規分布ではない。理由は簡単で資本主義ではお金がお金を呼ぶからだ。資本とは拡大再生産によってさらなるお金を引き寄せる元手のことであり、投資とは自分のお金を資本として資本家に加わることだからだ(ただしトレードではなく長期運用の場合)。お金を浪費せずに複利運用で投資していた場合、その差は数十年後には莫大なものとなる。

アメリカの歴史学者シャイデルは平和が続くと不平等が蓄積されるという一般的な法則を導き出した。そして彼は不平等を正す「平等化の四騎士」として「戦争」「革命」「崩壊」「疫病」を挙げた。経済成長が続く限り、格差は広がるし、環境破壊も進む。だから脱・資本主義の考えも生まれた。一方真逆なの立場の考えもある。資本主義が高度に発展することで、脱・物質化が進み環境への負荷が減るという考えだ。ここでは希望の四騎士は「テクノロジーの進歩」「資本主義」「反応する政府」「市民の自覚」だ。
どちらが正しいのかはわからない。だが数十年後には一つの歴史として結果がわかるのかもしれない。
結び
今回、わたしは能力主義に関連した部分に焦点をあてて記事を書いた。能力主義や資本主義はおそらく最も効率的なシステムだ。できるやつが担当すれば成果も上がる。一方で効率の裏で見落としていることもあるのではないか。効率上昇は本当に幸福に資するか。マルクスは工業化が進むなかで資本主義に対する違和感を『資本論』に書いた。難解な理論書である『資本論』がなぜあれほど人気になったか。骨格としての理論、貧困や格差と言う時事問題、革命戦士となって資本主義に抗えというメッセージ性=実存の3つを兼ね備えていたからだ。
実存。多くの労働者が資本論にハマったのは、冷徹なシステムには欠ける「どうして自分は不幸なのか」「どのように生きるべきか」という問いを見つけたからだとわたしは想像する。
効率性は、基本的に目的合理性だ。目的のための手段であって、目的はゆるぎないものでなければならない。しかし資本主義・能力主義の精神を内面化した私達にとって、その目的は「お金を得ること」まで貶められているのではないか。計算可能性でしか物事を判断できなくなっているのではないか。
その計算可能性に対抗したのが、内から湧き上がる力を大事にする思想、哲学で言えばニーチェ以降の実存主義者であり、手段自身が目的であるような価値合理性を重視する潮流である。
少々込み入った話をしてしまったかもしれない。ただ、能力主義は全体としては最適だが、個人個人はそれによって空洞化してしまっているのではないか。絶望の無理ゲーで生き抜くために必要なのは、目的ー手段に回収されない、内から湧く力なのではないか。わたしはそんなことを考えている。


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