「かわいい」はなぜ”暴力”になりうるか
まず「かわいい」は無条件に良い言葉ではない。「かわいい」は人を縛る言葉になりうる。
それは例えば「頭がいい」という言葉も暴力になりうるように。もちろん通常は相手の賢さを褒める意味で使われる。しかし例えば、親が子供に「頭がいい」と言うときには、その裏に「常に賢くありなさい」「優れていなさい」という圧力的なメッセージを含みうる。たとえ親にそのような意図がなかったとしても、だ。
これらを一言で言えば、眼差しの非対称性、とまとめられると思う。それは、誰か(「ひと」)から「見られている」と感じさせることで、「こうであるべき」という規範意識に縛り付ける不可視の圧力である。ありていに言えば、期待は支配の裏返し、である。
そのような「かわいい」の裏側の政治的駆け引きに迫る『かわいい論』(著・四方田犬彦)を参照しながら、さらに深く掘り下げていきたい。
わたしの体験
わたしが「かわいい」を最初に恐ろしいと思ったのは、小学6年生のときだ。学校の臨海合宿で海に行った。夏だがクラゲがところどころいて、陸で待機していた先生がバケツにクラゲを捕まえて入れていた(どうやって透明なクラゲを捕まえたのか、わたしは知らない)。経緯はよく覚えてない。そのクラゲはもともと死んでいたのかもしれないし、無害なやつだったのかもしれない。ただ、女子がそのクラゲに触っていた。「かわいーー!!」と言いながらぷにぷにクラゲの上半身を押していたのをはっきり覚えている。クラゲは死んでいた。(あるいはもともと死んでいたのかもしれない)。
後述するが、この「かわいい」はすでに女子とクラゲの政治性=コミュニケーションの欠如を表していたのではないだろうか。
別の体験もある。”Poppy PlayTime”というホラーゲームがあった。遊園地のような空間でマスコットキャラクターの怪物から逃げるゲームだ。ある時、グロテスクな敵キャラクターのぬいぐるみが発売されて、「かわいい」として子供に人気だということ知った。いやグロいだろ。牙を剥き出した怪物も、ぬいぐるみになった瞬間かわいくなるのかよ。かわいいってなんなんだ、と思った。そんな記憶がある。
わたしの「かわいい」に対する違和感はここから始まっている。だから『かわいい論』を手に取ったのも必然だったのかもしれない。
「かわいい」=無力化するまなざし
昨今あらゆる場面で「かわいい」という言葉が使われる。そのため「かわいい」を定義することは全く易しくない。しかし語の用法を分析することで、「かわいい」の裏の意味を映すことはできる。
「かわいいの対義語は何か?」というアンケートの結果は、①同語反復的なもの(かわいくない)②肯定的なもの(美しい)③否定的なもの(醜い)④その他(無感動的なもの)という4つに大きくわかれる。
興味深いのは、「かわいい」の対義語に「美しい」があることだ。「美しい」と「かわいい」を対比させることで、一瞬性、不完全性、非対称性が「かわいい」の本質的な要素であることがわかる。犬、猫、子供、キャラクター、ぬいぐるみ、花は「かわいい」とよく形容されるが、「美しい」と言われることはほぼない。違いは何か。
かわいいものは、かよわいものだ。はらりと壊れてしまいそうな脆さを含むものだ。理解可能な範疇に収まるものだ。弱いものに対して守ってあげたいと感じる、その感情だ。逆に言えば、「かわいい」は残酷な支配感情だ。
なぜ残酷か?「かわいい」は、見る主体と見られる対象の関わりを隠蔽することで成立しているからだ。犬、猫、子供、キャラクターetc、「かわいい」は相手が無力である/逆らえそうにない場合に限られる。小さいものや丸っこいものは、「かわいい」。自分にだけ弱みを見せてくれるキャラクターは、「かわいい」。
しゃべる犬は、「かわいくない」。
かわいいというのは、シチュエーションなどに左右される主観的フィルターである。赤ちゃん・犬・猫などは、「話さない」「コミュニケーションが取れない」「何考えてるかよくわからない」ことによって、押しつけがましいフィルターを否定せずに引き受ける。暴露話をしない。だからいつまでも「かわいく」あれる。逆に日本語をしゃべる犬がいたら、どうだろうか。自分が考えていた犬の「かわいい」イメージと相反することを言うかもしれない。そのときフィルターは完全にはがされてしまう。もはやかわいくない。
「かわいい」を基礎づけるのは、コミュニケーションの無さと言ってもいい。本来同等のレベルでしか生じえないコミュニケーションが欠落することで、「かわいい」客体はいつまでも幻想を纏う依り代となる。犬・猫・花……は話さない。だから「かわいい」。
あたかもオリエンタリズムのように。
一旦まとめると、「かわいい」は弱いものに対して惹起される「守ってあげたい」的な支配感情である。その幻想は相手がコミュニケーションを苦手とするほどより長く続く。曖昧な保護と支配のあいまで、かわいいは優越感と隣り合っている。(そしてこの視線の問題を扱うのがフェミニズムであったりする)。
ちなみに古語でかわいいを表す「いとほし」は①かわいそう②かわいいという二つの意味を持つ。「気の毒」という①の意味から②が派生している。また「うつくし」という古語もかわいいという意味を持つ。現代語では「切ない」が①かわいそう②かわいいを両方備えていると思う。枕草子「うつくしきもの」のように「かわいい」という感情はだいたい普遍的らしい。

「かわいい」の記号消費
今では「かわいい」という言葉が濫用されている。結構いろんなものがかわいいと言われる。この言葉がこれほどまでに溢れているのは、「かわいい」が消費社会の構造と結びついているからではないだろうか。キャラ化の兆候と似ている。
商品に「これを着ればかわいくなれます」「かわいさMAX」というコピーが入ることがよくある。それで動く市場もある。
消費主義の現代において「かわいい」は幸福の記号である。「かわいい」という記号によって他者との差異を作ろうとして、終わりない消費にハマる。
私たちは互いに「かわいい」と言い合うことで、自分たちが同じ共同体に帰属していること・「かわいさ」が存在することを確かめ合い、自分達の存在をそこに見出す。『かわいい論』によると、「かわいいものを挙げてください」という問いへの女性の答えは、バッグやアクセサリーなどの近隣集団を意識したものが目立った。同じ神を崇拝してできあがる信仰共同体をわたしはイメージする。
そして「かわいい」がそのような空想的な記号権威であるがために、「かわいい」は人々を駆動することができる。なぜなら、人は決して「かわいい」と完全に一体化することができないから。どれだけ「かわいい」に近づいたよう見えても、決して届くことが無い。だからこそ「かわいい」をめぐる競争は(自分で諦めない限りは)決して終わらない。なぜなら「かわいい」はそもそもが想像的で実体が無いのだから。
SNSや大衆メディアの結果なのか、わたしには測りかねるが、今では「かわいい」はさらに要素化されて、小さな記号に分割され、中身が無くなったように思われる。なぜ「かわいい」が言葉として溢れたのかを問うならば、その答えは一言で「かわいいに中身が無くなったから」と言えるのではないか。猫耳⇒かわいい、特定の衣装⇒かわいい、低身長⇒かわいいのように、「かわいい」の記号さえも要素に細分化された結果、かわいいを意味する記号だけが残った。あるいはプリクラで盛った顔写真のように、SNSによく表れるテンプレ的なかわいさがその反映だとしたら、わたしはすごく納得できる。要素化されたからこそ、「かわいい」は簡単に消費できる。「かわいい」≒意味の空洞。シミュラクルのユートピア。
最初の「頭いいね」の例のように、「かわいいね」と言われた人は「かわいさ」がキャラ的な価値であることを理解し、「かわいくあるべきだ」と思うようになり、今度は他の人に「かわいい」を付与し始める。「かわいい」は巨大な独立した知のシステムである。
そして今かわいいの対義語の一つに「かわいくない」があるように、この語それ自体が持つ支配力が私たちを包み込みつつある。
結び 結局どこが暴力なのか
結局、「かわいい」のどこが暴力なのか。
「かわいい」は語ることを許さないから。これがわたしの考えた答えである。かわいくあるためには、相手の理解可能性の範疇で動かなければならない。それは見るひとのルールに従うこと、見る人の視線を内面化することだ。「かわいい」の記号を身に纏うことだ。アイドルとして、非対等な隔絶した距離に身を置くことだ。視線をコントロールしているようで、誰よりも視線に縛られることだ。これがわたし自身の言葉で再構成した「かわいい」の暴力性である。
わたしは「かわいい」を否定したいわけではない。普通、それは親しみや外見の魅力などの混合物として構成されていて、感情レベルでは無害どころかプラスに働く。ただしそれを無意識のレベルまで極限まで突き詰めると、非対称構図に辿り着いてしまうという構造の話をしている。違和感を覚えたからこそ、その裏側を考えてみたかっただけだ。
かわいいに過剰に同一化しようとすることは、逆に交換可能な対象となることである。「かわいい」の文化圏に浸りすぎると、たまにわからなくなってしまう。
かわいいだけじゃダメですよ。
(追記: 今思い出したが、かわいいとその暴力性みたいなのを扱ったもので最果タヒさんの詩がある。「かわいくなければ死ね」みたいな、過激な言葉だったからよく覚えてる。わたしはあまり好みでなかったが、同時に読んでみてもおもしろいかもしれない。)


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