春だからカメラを買った。高校卒業祝い兼大学進学祝いだ。3万円。自腹だった。
Less is more:不完全さこそが欲望を生む
買ったのは「Paper Shoot」というカメラ。コンセプトは「Less is more」。最小限の機能だけを備えたカメラだ。
カメラ本体は1枚の基盤だけだ。シャッターボタンとモード切り替えスイッチだけがついている。モード切り替えでは「カラー/モノクロ/セピア/ブルー」のモードを選べる。充電時は「カラー/モノクロ/タイムラプス/10秒動画」というモードに変化する。
PaperShootはすこし不便だ。普通のカメラにあるはずの、デジタル画面・ズームボタン・フラッシュ・ピント調整機能が無い。
なぜわざわざ不便なカメラを買ったのか。
高級なカメラはつまらないからだ。カメラは高性能になればなるほど、見たままの景色や撮る人の意図をより正確に映すようになる。写そうとする。自分の思い通りの写真が撮れるというのはたしかに心地がいいが、しかし、そうしてできた写真は撮り手の意図以上のものにはなりえない。画角、ピント、色味、すべての写真の要素がコントロールされることになるのだから。
わたしは自分の写真の出来を偶然に任せてみたいと思った。だいたいの画角やタイミングはやはり自分で決める。しかしこのカメラのファインダーはただの穴でしかないから、思っていた視界と違ったり、写真が傾いていたいする。撮影まで1秒ほどかかるから、狙ったタイミングとズレる。極端な暗さ・明るさに弱いので、撮れた写真が黒飛び・白飛びすることがよくある。どんな写真が写るかわからない。実際にスマホに転送するまでは。
そこが逆におもしろい。と言ったら、おかしいだろうか。でもわたしはそういうところが好きだ。写真が自分の意図を超えてくる瞬間、再び発見がある。一枚で二度おいしい。
すごく大雑把に言うと、わたしは逆張りがしたいのだ。現代という「あるがままのどうしようもなさ」を忘れ、写真をは加工を、イメージには化粧を、臭いものにはフタをするこの時代に。計算可能性がすべてを覆う時代に。この他者無き世界に。
わたしが撮りたいのはヘタウマな写真だ。ヘタウマとは技術的には未熟かもしれないが、勢いがあって思わず圧倒されてしまうようなものだ。「こうあるべきだ」という規範に囚われてる作品は、どうしてもその劣化コピーになってしまう。『上手い・下手が中途半端な再現性に終始するのだとしたら、センスはヘタウマ的な独創性と言えるはずだ。千葉さんの言葉を借りるなら、『「ヘタウマ」とは、再現がメインでは無く、自分自身の線の運動が先にある場合』である。』(過去ブログより引用)。第一、高画質でよく写る写真が撮りたいならカメラなんて要らないではないか。iphoneで十分だ。
謎の写真がよく撮れる。微妙にブレていたりボケていたりする。だがそもそも人間の欲望なるものは、欠如という形式に向かって働くものではなかったか。カーテンのだまし絵では、人はカーテンの裏に何があるのかを気にする。欲望は、目に見えるモノや実体的な何かを対象として働くのではない。何かが「見えない」「わからない」ときにはじめて、見えないが存在すると思われる「なにか」に向けて働く。つまり、人の欲望にはカーテンが必要なのだ。
美しいが人を惹きつけない写真には、欠如が無い。わたしがボケ・ブレ・荒れを好きなのは、欠けている「なにか」をわたしに想起させるからだ。
こんなことを言うわたしを、変だと言う人もいるだろう。わたしは変態だ。そんなことはどうでもいいが、このカメラがよいものだとわたしは主張してみたい。だからわたしはこのカメラを使うのだ、と。
PaperShootで写真を撮ってみる
以下、撮った写真の例だ。























以上、今回はPaperShootというカメラの紹介だった。内容はわたしのカメラ自慢だったけど、つきあっていただきありがとうございました!!
(人の欲望は欠如に向かう、という主張が気になる人は「ラカンはこう読め」(著・ジジェク)を参照してください)


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