教養とは何だろうか
「教養が大事」という主張はよく聞くが、その意味するところは意外と曖昧だ。
そのような教養主義の一方で、「インテリぶっている」とか「ひけらかしている」と知識を揶揄する声もよく聞かれる。このことが端的に「教養」の混乱を示していると思う。
結局、教養とは何か。
わたしにとっての現時点での答えは「10年経っても通じる、学問の土台」だと思っている。学問のための基礎学力。学問を始めるためにも、基礎的な知識が要る。それはつまり、リハビリのための筋力のようなものだ。新しくものごとを知ろうと思ったときに、基礎的・常識的なことがわかってないと、入門することすらままならない。
「10年経っても通じる」と前段で書いたが、今回参照する『おとなの教養』にも「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」と書かれている。つまり教養とは、枝葉末節の知識ではなく、幹である。そう言っても差し支えないだろう。
教養7科目について
では実際に学ぶべきは、何か。
「おとなの教養」では①宗教②宇宙③人類の旅路④人間と病気⑤経済学⑥歴史⑦日本の7つを挙げていた。一見無関係に見える。しかしこの7科目はどれも繋がっている。わたしたちはどこから来て、どこへ行くのか。あるいは、人間とは何か。そのような問いだ。
以下、各ジャンルの大まかな関連についてわたしの考えを交えつつ紹介していく。(各トピックの突っ込んだ説明は長くなりそうなので割愛する。詳しく知りたい人はこの本をぜひ自分自身で読んでいただきたい)
まずは宗教についてだ。宗教はどうも胡散臭い、と思われがちだ。宗教=非科学的・不合理であり、カルト的だという考えには、たしかにそれなりの根拠がある。だって実際に宗教のほとんどの教義には根拠が無いのだから。さらに日本人はよく無宗教と言われる。信仰とは縁が薄い。だから宗教を本気で信じている人と距離を置いて、宗教≒異物と眺めてしまいがちなのも仕方のない話ではある。
だがしかし宗教を無視してしまうのはあまりにももったいない。なぜなら、宗教とは古代から受け継がれた生きる知恵だからだ。たとえ宗教の教義自体が嘘っぱちだったとしても、それは宗教が無意味である、ということにはならない。それは、たとえば千円札にはほんとうは価値が無いのにもかかわらず、価値があるものとして市場で流通していることと似ている。たとえば、本質的に嘘でできているドラマに涙を流すことと似ている。
存在せずとも、効果がある。
もっと具体的に言おう。宗教には人々を結びつける働き=共同体を作る働きがある。教義や信仰を共有することで、「一つの集団である」という意識を持てるようにする。信者の共同体をつくり、相互扶助を可能にする。(だいたいどの宗教でも、信者は互いを助け合う義務を負っている)。それがすなわち社会である。
教義も単に嘘塗れなのではない。言ってしまえば、実用的な嘘なのだ。例えば豚肉を食べなければその分穀物や水を人々に分配出来る。決まった日時に信者全員で礼拝をすれば共同体の成員であるという結束が生まれる。天国を信じていればよい行いができる。
「軸の時代」(と哲学者・ヤスパースが言う時代)に、世界ではメジャーな宗教が同時多発的に生まれた。この時代は、貨幣と都市の原理が生活に浸透し、都市や共同体間の交易が盛んになり、都市の外部の無限へと人々が開かれた時代である。無限への恐怖を前にして、人々がまとまって共にいられるように生まれた生活の工夫が宗教である。そうとらえるだけで宗教に対する見方もまた変わってくるのではないだろうか。

次に、宇宙というテーマについて。宗教はよく宇宙(あるいは天界)について言及することが多い。人類は地球で生まれたが、地球は宇宙で生まれた。あたりまえのことだが宇宙はこの世の存在全ての母胎である。だからこそ存在について語るなら宇宙は避けては通れない話題だ。
現在、宇宙についてはますます研究が進んできている。たとえば、ビッグバンとか、ブラックホールとか、ダークマター(未解明の物質)とか、宇宙の外部とか、まだまだわからないことは多くある。そうした謎の解明以外にも、宇宙空間での生活や地球に似た人類の移住先惑星の探索や宇宙の軍事的利用などの研究も進められている。
考えてみれば、宇宙と言うものは根源的なテーマであるにもかかわらず学校で教わることはほとんどない。小中学校で少し教わるけれども、高校で教わる生物・化学・物理にはほとんど含まれない。実際にまともに宇宙と向き合う科目は地学(それもほとんどの人が習わない科目)くらいである。
そんな宇宙の中の地球で、(宇宙史スケールで見れば)ごく最近になって人類が生まれた。人類はアフリカで生まれ、その後中東辺りで分岐し、世界各地に広がった。人類の起源は一つである。白人も黒人も黄色人種も。
このような人類の起源について取り扱うのが人類学である。人類学は人類の普遍性をテーマにしている。人間の文化だって人間の生物学的基盤に支えられている。人類の歴史について知ることは自分の文化を相対化して見るうえでとても大切だ。
世界史を辿っていくと、人類のその後の歴史には、病気が重大なファクターとなっていることに気づく。病気が人間の社会を変えてきたと言っても過言ではない。
たとえば中世ヨーロッパではペストが流行してヨーロッパ全体の1/3の人々が亡くなった。結果、農民が少なくなり、農民の声が大きくなり、農奴解放などにつながった。マルクス的な言い回しをするなら、病気が生産力と生産関係の矛盾を招いた、と言ってもいい。資本家(のようなもの)とその下で働く労働者のパワーバランスが病気によって乱されたことで人類の歴史が変わったのだ。
さらに、病気の解明を目指す努力がのちの生物学などの基礎を築くことにも繫がっている。
病気は社会のパワーバランスを変えてしまう強い力を持つ。それゆえ、良くも悪くも人間の社会を強制的に新しい時代に突入させてしまうことがある。(戦争・革命・崩壊・疫病は、人類の歴史を大きく変える、と言われている。)
人間の社会の変化が歴史である。
過去の歴史観においては、ヘーゲルの弁証法(「対立する概念がより高次の概念へと包括される運動を繰り返すことで、いずれ究極の真理に到達する」という考え方)のように、歴史は絶えず良い方へと向かっているとする考えがあった。しかし今、そのような統一的な方法(=進歩史観)で歴史を見るのは困難になっている。各地域ごとの文化や生活が相互に影響し合って変化していくことが歴史なのだから、歴史を眺めるということはなかなか難しいのかもしれない。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。歴史は私たちの来た道を示すと同時に、ゆくべき道を示している。
その人類の歴史のなかのさらにごく最近になって資本主義が生まれた。ひとつ注意しておきたいのは、資本主義というのはきわめて近代的で特殊な現象ということである。社会主義体制下のソビエトの少年が貨幣について想像できなかったように、資本主義の外側での生活を想像できない人、または人類はずっと資本主義のもとで生きてきたと勘違いしている人は意外と多い。
資本主義というのは、(ありきたりな説明だが)資本家が労働者を雇って働かせて、資本家はどんどん生産利益を設備などの投資に充てて拡大再生産をすることによって、さらなる利益を目指す「会社」が競合している社会のあり方のことだ。(自分の言葉で語ったために多少ずれているところはあるかもしれないが、ご容赦願いたい)。資本家による、資本投入⇒生産⇒利益回収の再帰的プロセスが一般化した世界、と言ってもよい。
資本主義にはもちろん良い面も悪い面もある。良い面は今更言うまでもない。悪い面は格差の拡大だ。肥えるものがさらに肥え、痩せたものがさらに痩せる。このようなマタイ効果が生じるのは、前段で述べた資本主義の原理を考えればすぐにわかる話である。
経済学はこのような資本主義経済内部におけるさまざまな現象を扱っている。
さて最後のトピックが日本である。私達の生きる国が日本であるのならば、人類=私達の存在について語ろうとすれば必要なトピックであろう。
日本というのは少し特殊な国でもある。島国特有の性質もあるし、日本神話などはまさしくその性質に基づいている。日本は無宗教と言われるが、「文化」として、その深層に日本独自のスタイルが横たわっていることは言うまでもない。歴史的にも、日本は独立を保ちつつ独自の近代化・発展を遂げた稀有な国でもある。
国というのは外部との接触によりその差異から内側という意識が生まれて形成される。だから当然、「日本」という概念も開国後・明治初期に初めて制度上生まれたものだ。そしてよく間違えられがちだが、時代を貫くアイデンティティというものはない。(正確には、固定的なアイデンティティは無い。日本人の原風景と言うものはあるかもしれないが、その意味内容は時代と共に少しずつ変わっている。日本と言えば、丁寧・高品質というイメージも割と最近の戦後に出来上がったものに過ぎない)。日本という国は多くの民族の混合でもある。だから大和民族なんてものは政治的宣伝のもとのただの後付けに過ぎない。そして国家意識というものは政治的下地や教育のもとにうまれている。これは、社会学的に国家が「想像の共同体」であるということと等しい。
ナショナリズムは悪、と語られることは多い。しかし、もし健全な愛国心が存在するとしたら、それは自発的に生まれる郷土愛のようなものだろう。「同じ日本人だから助け合おう」という主張は、わたしにとってはどうも胡散臭く見える。繰り返すが、「日本」も「国」も、想像の共同体である。目の前にいたから助けよう、仲間だから助けよう、とどうして言わないのだろうか。

おわりに ー教養とは、知識ではない。
以上、教養をめぐる思考をもとに、教養七科目(①宗教②宇宙③人類の旅路④人間と病気⑤経済学⑥歴史⑦日本)について、わたしの考えをつなげて書いた。宗教は共同体をつくって生きる人間の知恵であり、1つの世界の捉え方を提供するものだ。宇宙は、万物の根源であり、そのなかで人類は生まれ、旅をして、社会的な進化を遂げた。その過程が歴史である。歴史の先端=現代では、資本主義がという繰り返すが、この7つは全て、私達自身の立ち位置を理解する=人間とは何か、この私とはだれかを理解するという意識のもとでつながっているものだ。
最後にこの7つのトピックを、3つの軸で整理してみたい。
1つ目の軸は、規模だ。「ミクロ(微視的)↔マクロ(巨視的)」という対立軸である。マクロ/ミクロは相対的である、ずいぶんと主観的なものだが、ここでは世界規模=マクロ、一つの共同体の内部=ミクロ、と定義する。
2つ目は、時間スケールだ。通時的(ずっと昔から)↔共時的(最近)という対立軸であり、これも主観的なものだが、人類の歴史をものさしとして、長いか短いかを判断する。
3つ目は、社会的↔自然的という軸だ。「社会的である」ということは「ある集団の内部でのみ通じるような、想像的概念である」ということであり、「自然的である」ということは「人の属する集団によらず、普遍的に正しいことである」ということを意味する。(これらの軸はわたしが今考えたものなので、半ば牽強付会かもしれない。)
すると、先ほどの7つのトピックは、次のように分けられる。
宗教(ミクロ・共時的?・社会的)
宇宙(マクロ・通時的・自然的)
人類史(マクロ・通時的・社会的)
病気(ミクロ・通時的・自然的)
経済(マクロ・共時的・社会的)
歴史(マクロ・通時的・社会的)
日本(ミクロ・共時的?・社会的)
自分で書いておいてなんだが、随分と曖昧な分類だ。そもそもこれらの対立軸は、二値的ではなく、連続的な評価軸である、ということは覚えておいてほしい。上記の分類はあくまで便宜上の区別に過ぎない。しかし、この3軸による整理は、意外と役に立つ。
最後に、教養とは単なる知識ではない、と主張したい。歴史も、自然科学も、宗教も、いずれも世界のなかに自分を位置づけるためのツールである。広い視野で現在地を割り出し、そこからどこへ向かうべきかを悟るための、ツールだ。つまり、教養とは世界の読み方である。わたしは、そう考える。
実はこの記事は、2年前にわたし自身が書いた文章をリライトしたものだ。その過程で全文が置き換わった。自分の考えの変化もわかった。わたしは、わたし自身は、様々な本を読んで、ようやく自分の考えを持ち、ひとりで歩きだせるようになった、というのが正直な感想だ。昔の記事は、悪文だったし、自身の無さ、引用の多さが目立っていた。教養を語るならば、ある程度の教養は身につけておきたい。そのうえで、本は最強のツールだと思う。YouTubeなどでも教養を謳う動画が多くある。(そしてそれらはファスト教養と揶揄されることもある)。教養を身に着けたい、という態度は前向きですごくよい。ただし、手段としては、やはり読書が最強だと思う。なぜなら、本は出版までに多くの人が携わり、数千万円かけて出版されていて、多くの熱意と情報が注ぎ込まれているからだ。さらにその知識を体系的に教えてくれるからだ。
以上が、「大人の教養」(とかつての自分の文章)を読んで、わたしが考えたことだ。
また別の記事で会えたら、うれしい。


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