『闘うレヴィ・ストロース』感想 | 近代の外の豊かさ

レヴィ・ストロースは、構造を持ち出すことによって、いったい何と闘っていたのか。

この本は、レヴィ・ストロースの思想を解説する本ではない。むしろ、彼の思想の背景、闘争にこそ焦点を当てたものだった。

私にとって意外だったのは、彼が青年時代は社会主義者だったことだ。マルクスとカントを読み、「社会主義学生」という雑誌の書評欄を担当していた。そこから人類学へと道のりには、興味関心の緩やかな移り変わりなど、紆余曲折があった。しかしその核心にあった問題は、「来るべき未来社会のモラル」だった。

そこには当時の社会状況と彼の問題意識が絡んでいる。第一次大戦、二次大戦の戦間期。輝かしい理性の時代から、狂気の時代へと移り変わる、まさにその境目の時期だった。イタリアのファシズム、ドイツのナチズムを同時代的に目撃しながら、社会主義運動に深くコミットしながら、「ならば来るべき未来社会の倫理はどうあるべきか」と反問していたのではないか。

その問いへの意志は、『アデン・アラブ』の書評に現れている。「ポール・ニザンの経験の価値は、アデンから帰還したことではなく、そこに行ったことにある」。

彼にとって、未来社会を語るには、近代の内部は狭すぎたのだろう。彼が南アメリカへと渡ることはすでに必然的な定めだった。

その船で彼は人類学の本を読み、南アメリカでのフィールドワークも経て、やがては革命的な人類学者となっていく。

これがレヴィ・ストロースの、人類学者になる前の、大まかな軌跡だ。

その後は、ヤコブソンの音韻論を手がかりに、構造主義人類学を創始していく。インセスト・タブーと「女の交換」という形式の観点から、家族・氏族の構造を解明する『親族の基本研究』を発表。その後は、「未開人」の内面へと迫るべく、神話研究へと没頭していく。

正直、私はこの本でレヴィ・ストロースの思想がわかったとは思わない。最初に述べた通り、この本がレヴィ・ストロースの人生にフォーカスしていたからだ。しかし、彼の企図は、彼が何を目指して何と闘っていたのかは、なんとなくわかってきた。

近代から切り離された「未開人」達は、神話=論理(“mythology”)の世界を生きていた。それは進歩史観的な「劣った」世界ではない。

近代においては計算可能性・合理性が重要視されている。それは資本主義にとって都合がよかったという、移行的・原理的な問題が根底にあるからだ。科学の勃興はこのイデオロギーに支えられている。

そして啓蒙主義以降、感覚は理性に劣る、と見なされるようになった。西洋文明は感覚と理性の分裂を生きている。(周知の通り、その理性の崩壊を象徴するのが世界大戦だった)。

マックス・ウェーバーは、この近代への以降の側面を、「脱魔術化」(Entzauberung)として捉えた。しかしEntzauberungとは、原義からして「魔の無い世界」である。(cf.『社会学入門』・見田宗介)。それは精神的豊かさの喪失として経験される側面を持っていたのではなかったか?

近代から取りこぼされた「未開人」は、神話の世界・魔術の世界を生きている。それは近代のなり損ないではなく、全く別の自足したシステムなのである。

結局、「来るべき未来社会の倫理」という問いへの回答は、どのように与えられたのだろうか?

その答えも神話に見出される。他者が到来する余地を残すこと。自と他の差異を認めること。他者を、やがては離れてゆく存在として認めること。

自と他の問題が、「動物」と「人間」、「私」と「あなた」、「西洋」と「非西洋」のレベルで重ね合わされている神話の世界。ここにこそ、近代が弱さとして捨ててしまった、もうひとつの豊かな思考がある。

(画像: クロード・レヴィ=ストロース(2005年)|UNESCO / Michel Ravassard|CC BY 3.0|Wikimedia Commons)

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