この本を読み終わって、セミがまた鳴き始めた雨上がりの街を散歩した。通り過ぎた家からはシチューの香りがした。いつもは見落としていたことにふと気づく、ただの生活の断片。
『センス・オブ・ワンダー』には、小さなもの、忘れ去られたもの、命に対する優しい眼差しがあった。
著者はレイチェル・カーソン。生物学者で『沈黙の春』で世界的に知られている。こちらの本は農薬DDTの散布による生物濃縮の結果としての、生態系の崩壊を告発する本だ。
『沈黙の春』があまりに有名すぎたがゆえに、私はカーソンを冷徹な学者と思っていたかもしれない。いわゆる自然原理主義のような。実際に、DDTが各国で禁止されたことで、アフリカではマラリアによって大勢が死んだ、という話を聞いたことがあった。(ちなみにこの話の真偽は、福岡さんのエッセイに書かれている)。
しかしそんなイメージとは裏腹に、この本に書かれていたのは、子供とともに自然を注意深く見つめる、ひとりの人の眼差しであった。海の嵐に、山に、庭に、自然との交歓を見出す、おそらく私達のような現代人が忘れてしまったような、原始的な態度だった。
人間は、対自然存在となることによって、初めて人となりえた。文明の歴史とはすなわち、自然を扱う道具・を扱う道具・を扱う道具……を創造する、間接化の歴史だ。
その過程で、(特に農耕以降の文明においては)、目的意識があらゆる行動に先行するようになった。充足は宙吊りされた。
もし現代に生きづらさを感じるなら。不自由を感じるなら。その答えは、現代のシステムには無いかもしれない。(「埋まらない欠如」こそが現代的主体の条件なのだから。)
その時に、自然へと回帰することは1つの解決策ではないか。自然との完全な同一化は無理にしても、虫の音を聞くだけでも、空を眺めるだけでも、木々の香りを感じるだけでもいい。(そこに自然のレジャー化・パッケージ化という別の問題があるとしても)。意外とおもしろい。
さすがにカーソンのように、海や山に囲まれた暮らしへとすぐには切り替えられそうにはない。が、意識から感覚を解放し、ただ漫然と五感に頼ってみること。そこに、<間接・道具的>な生き方に対する、<直接・享受的>な逃げ道があるのだと思う。
この記事を書いてる現在、私は夏休みで福島県へと帰省している。大袈裟だが、世界の美しさ、みたいのを感じる瞬間がある。それは絵を描くようになって、観察するくせがついてから、感性が高まってきたように思われる。光を、色をちゃんと見るようになってからは、微細な差異に敏感になった。アスファルトの路面でさえ、ただの灰色では無いことに気づいた。
意外と、少し遠くまで散歩してみる、庭の雀に餌を与えるだけでも、おもしろいものが見れたりする。
優しい写真とともに、美しい本だった。

(補足: ちなみに、マラリアに関する話は誤解である。①そもそもカーソンはDDTの大量散布を否定しただけであり、②当時すでに蚊はDDT耐性を獲得していたらしい。)


コメント