ディストピア小説を読んだことはあるだろうか?『1984年』や『すばらしき新世界』などだ。そうして括られるディストピア小説には共通の弱点がある。無論、それは創作上の弱点だ。
まず、ディストピア小説は、小説たらんとして共通のプロットに従わざるをえない。
①完全無欠に見える社会②に対する主人公の不信。その不信が高じてやがて、③ユートピアの内にディストピアを見てしまう。その後の主人公の行動は、作者に委ねられている。
しかしこうしたディストピアは欠陥である。
20世紀の思想家にミシェル・フーコーという人がいた。主に、規律や権力の起源について論じていた。彼を経由することで、その欠陥はクリアに見えてくる。
フーコーにとって権力とは何か。
中世と近代で、権力の性質は大きく異なる。中世において王権は絶対だった。王の権威とはすなわち、国家の威信を身に帯びて、その豪奢さを見せびらかす権威だった。ゆえに「王殺し」などの大罪人は、あらゆる残虐な方法で、王の権力の反転形として、盛大に処刑された。一方、「普通の人々」は権力によって放置された。
啓蒙時代を経て、近代になるとその性質は変わっていった。身体刑は廃止され、監獄に収監することで自由のみを奪う「自由刑」が基本となった。しかし、その変化は思想的・人道的な変化によるものでは無かった。身体刑が、罪人のエネルギーを無駄にする非効率なものであり、政治に台頭したブルジョワ階級にとって中央集権的な権力を暗示する邪魔なものであり、王にとってもお祭り騒ぎの起きる処刑場は権力体制にとって邪魔であったからだ。
そして自由刑は誕生した。新しい刑罰は、新しい権力の本質を端的に示していた。中世の「Take life or let live」から、近代の「Make live and let die」への変化を象徴するものとして。(日本語で言えば「死なせるか、生きるままに放置させる」権力から、「活動的に生きさせるか、勝手に死なせとくか」という権力へ。)
近代の権力とは何か。権力と聞くと、どうしても国家や警察や官僚機構などの巨大なシステムを想起してしまいがちだ。しかしフーコーにとっては、権力はもっと小さなものにすぎない。それは学校・病院・会社などの組織の内部の「小さな工夫の積み重ね」として現れる。学校や会社で制服を着させるのはなぜか?机が全て同じ方向を向いているのはなぜか?それらは教師や上司にとっての制御可能性を高める工夫であり、そうしたちょっとした装置を通して、人々は「あたりまえのこと」として規律を受け入れていく。権力を内面化する。
フーコーの語る近代の権力は、私たちの生活の細部にまで浸透して、あたりまえに見せかけて、生活を効率化する様々な工夫である。権力は命令をするだけではない。欲望を生産するものである。私はこう考えた。(これは暴力的な単純化かもしれない)。
もうお分かりの通り、ここからディストピアの構造的欠陥が導かれる。
ディストピア批判へ
フーコーを経由したことで、ディストピア批判の軸が見えやすくなったはずだ。
ディストピアにおいて権力は命令する。主人公は違和感に気づく。しかし「主人公が違和感を感じた」時点で、権力は負けているのだ。本当の権力は、活発に人々を行動させることで、「活動的な服従」の状態に人々を置き、そもそも疑問を持たせないのだから。
権力の失敗例としてフーコーが挙げたのは、ソ連だった。恐怖政治、粛清、内部告発という強権的な体制を敷かざるをえなかった時点で、近代的権力としては失敗していた。恐怖政治は、かつての王の権力と同様であり、コストが高く、いずれ破綻することが目に見えていた。
逆に、権力の成功例としてフーコーが挙げたのは、ある孤児の日記だった。孤児院に入れられた少年は、死ぬ間際に「まだこの孤児院で過ごせないのが心残りだ」と書き残した。
主人公が違和感を持つディストピア=ユートピアなのだとしたら、他にも違和感を持つ人々はいるはずだ。多くの人々が、潜在的な不安を感じている社会だ。いずれその社会は崩壊する。それは完成されたディストピアあるいはユートピアではない。
本当の権力は、内部から浸潤し、一切の疑問を持たせない。その内部では、人々はsubjectである。subject=主体、あるいは家臣として。人々が、満足しながら支配される社会が完成したとしたら、それこそユートピア=ディストピアの完成だろう。
あたかも、監視カメラは嫌いだが、SNSには嬉々として記録を残す私たちのように。
本当に恐ろしいディストピアでは、主人公は違和感を感じない。なぜなら、主人公は幸福だからだ。


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