演技は社会に欠かせない。演技それ自体は正常な反応である。
しかし、演技から抜け出せなくなってしまうのはなぜだろう。そのうちに「ほんとうの自分」が消えてしまったように感じられるのはなぜだろう。
今回読んだのは、『引き裂かれた自己』と『まなざしの地獄』だ。前者は精神分析家による統合失調症の研究書であり、後者は社会学者による連続射殺魔N.Nの人生を考察する本だ。一見関係無さそうなこの両者は、「まなざし」と「自己」で交わる。
つまり。結論をあらかじめ言ってしまうと、私たちが自己の表層を演技し自らを商品化するのは、他者から向けられる欲望のまなざしを先回りして、擬似的な主体になるためである。しかしそれは、どこまでいっても「擬似的な」主体にすぎないのだ。全てはここに収束する。
それでは、始めよう。
まなざしの地獄
『まなざしの地獄』は、日本の連続射殺魔・永山則夫(N.N)を手がかりとした論考である。「手がかり」と言ったのは、この本がN.Nを通して個人を規定する社会的構造について考察した本であり、N.Nについての本ではないからだ。
N.Nについて、Wikiから引用する。
1968年10月 – 11月にかけて、東京・京都・北海道・愛知の4都道府県で拳銃を用い、男性4人を相次いで射殺する連続殺人事件を起こし、翌1969年に逮捕された。(略)……殺人罪および銃刀法違反に問われ、……1997年8月1日に東京拘置所で死刑を執行された。(引用元)
彼は東北の貧しい村で生まれ、3歳の冬に山に捨てられた。家族や東北という地を憎み、故郷の否定としての東京に夢を持ち、中学卒業と同時に上京した。
東京で働き始めるもささいなトラブルから職を転々とする。彼の憂鬱はなんだったのか。
まなざしの地獄、である。
人の内面は他者によって規定される。人は見かけで判断される。あるいは属性で判断される。貧乏臭い服装は見ればわかるし、肩書きは乗り越えられない壁となる。「この私」は、他者の欲望の道具として扱われる。当時上京した中卒労働者が、「金の卵」として労働力としてのみ見られていたように。
N.Nは都市に適応しようとした。そして明治の学生証とローレックスの腕時計を持ち歩いた。
しかし彼の十字架は消えなかった。彼が転々とした職は、全て履歴書を必要としない職業、過去を覗かせない職業である。彼の幼少期の体験、貧乏であり存在自体に価値がないという原罪は、いくら表層を装えども消えることなく刻印されていたのだ。
彼が苦しんだのは、「望む通りに理解されることの不可能」であった。
『蒸発と変身への衝動は、まさにこのようなまなざしの地獄からの脱出の願望に他ならない。しかしより日常的には、われわれは自己の表層を演技することをとおして、逆に他者たちのまなざしを操作しようと試みる。そのことによって、ある限界のうちでの超越はえられるからである。』
見田宗介のこの言葉は、ある意味で、この記事の全ての論点を先取りしている。
引き裂かれた自己
『引き裂かれた自己』は紛れもなく精神病研究の本である。しかしこの本が偉大なのは、愛によって患者を治療しようと試みたことだ。患者を「患者」として捉えずに、理解可能な形で、統合失調症に至るプロセスを解明したことだ。
精神病とはどんな現象か?
「自分に見られる自己」と「他人に見られる自己」の認識の決定的な食い違いである。「私は前世キリストだった」と言えば、私は精神病と言われるだろう。
精神病にはいろんなタイプがある。しかしそれらはアイデンティティの不安定さに由来している。
アイデンティティの不安定さにも原因が様々あるが、その根底には幼少期のトラウマがある。親に関心を持たれなかった、欲望の手段として見られていた、逆に溺愛されすぎていた、など。
そうして連続的な「自分」の感覚を持てなかった人々にとって、他人は侵害的に映る。「呑み込み」「爆入」「石化」としてレインが説明してみせた通りだ。不安定な「わたし」が「あなた」の存在に呑み込まれてしまうのではないか。空虚な私の内面が現実の急な侵入によって置き換えられてしまうのではないか。他人から、人ではなく手段として見られることによって、「わたし」は消えてしまうのではないか?そういう類の不安である。
精神病者には、孤立か融合かの2択しかない。
あらゆる関係を恐れるようになった人は、自分自身を、内的自己と外的自己へと分裂させてしまう。あえて偽りの自己を演じた結果、外的自己はますます「自己ならざる自己」として意識され、内的自己と乖離する。外的自己はやがて「偽自己-体系」として自律的・機械的に振る舞うようになり、当事者は現実との接点を失う。外部からの活力を得られなくなり、内的自己は内部から枯れてゆく。
しかし外的自己は外部へと適応しているため、このプロセスは他人から気付かれずに進む。
最終的に、「全てを捨てて自分自身になる」か「内部の自分を殺す」決断をしたとき、永久に精神病者となってしまうのだ。
表層の演技・深層の空虚
まずはっきりさせておきたいのは、N.Nは精神病では無かった。しかしこの2冊を同時に取り上げようと思ったのは、両者に共通する構造があったからだ。
『われわれは自己の表層を演技することをとおして、逆に他者たちのまなざしを操作しようと試みる』。しかしそれにより私達はますます視線に囚われる。なぜならそれは他者の視線を内面化することに他ならないから。自分を他者の基準に置き換えることだから。
「見せかけ」は、他者のまなざしに順応しながら、自己をピエロと扮して「お前にはわからない」と他者を嘲笑する、自己防衛反応でもある。N.Nは社会的に過剰なラベルに苦しんだ。何をしても、彼は東北の貧困家庭出身の中卒の男である。だから彼はこの事実を隠すために、高級腕時計などの記号を身に着けることを覚えたのだ。
精神病も自分を偽るところから始まる。しかしN.Nとの間には明確な差がある。精神病者はアイデンティティの欠如に苦しむが、N.Nを苦しめたのは負のアイデンティティであった。N.Nの過去はたしかに悲惨だったが、彼自身は空虚では無かった。ゆえに他者との関係からひきこもるのではなく、”射殺”という現実的手段に出ることになった。
要するに。一方は自己の内部で裂け、他方は自己と社会のあいだで裂けていたのだ。
時代的分析 ~分裂する現代~
現代では、「まなざしの地獄」に対抗するための、「まなざしをコントロールする技法」も多様化していると思う。おそらく、その変化には①時代の空気の変化と②偽装のための技術の進化がある。
①について。戦後の日本文化史はよく、理想の時代・夢の時代・虚構の時代、として語られる。理想・夢・虚構はいずれも現実の対義語である。詳論は省くが、私達は虚構の時代の続きを生きている。
虚構の時代とは何か。人々を結びつけるイデオロギー的基盤、つまり「大きな物語」という共同世界観が崩壊したために、各人がそれぞれのフィクションに没入していった時代である。「大きな物語」は例えば、共産主義・国家・宗教・終末思想などである。虚構の時代では、「世界」のリアリティが失われたために、現象を支える”意味”が宙づりになった。”表層の見せかけ”/”深層の意味”という深浅のスキームが解体され、すべてが同列の”模造品”と化した時代だ。
『古典的な夫婦の会話がひとしきり続けられたあとに、「わたしたち、今日も夫婦の会話をしたわね」と妻が確認したりする。「家庭の幸福」が演技されている。演技されている、ということが、この時代のリアリティを表している。』。見田宗介さんは当時の劇を評論してこう述べている。
語ると長くなるから大雑把に言うが、ちょうどこの時代、新住民化・郊外化・コンビニ化が進み、地域共同体も空洞化し、各個人のつながりは自然なものではなくなっている。人と人の関係性は目的をもって作るものへと変化した、という背景がある。だから、人間関係は「やってる感」の当たり障りのない自己確認になったと言えるのではないだろうか。
ここにリンクするのが②の技術的進歩だ。
技術的進歩は、主にインターネットの発達だ。ネット上で人々とコミュニケーションを取れるようになったことは、ネット上で身分を偽ることを可能にしたし、なによりも「降りられる関係性」が可能となった。
そのような状態で、まなざしをコントロールする技術が増殖するのはあたりまえだ。最近の傾向だとなにがあるか。SNS(主にX)は、「まなざしのコントロール」が横溢しているのではないか。いわゆる病みツイや、(主に女性の)性的ほのめかし、誇張した自慢はその好例かもしれない。
社会に見た目や属性で評価されることをふまえたうえで、自ら「まなざしの地獄」に参入することで疑似的に主体になる方法である。「私のことはこう見てください」と言外に発信することで、「ほんとうの自分」と「見られる自己」を一致させ、アイデンティティを取り戻す試みだ。
しかしそれは、自己を分裂させ、世界に過剰に同一化することでアイデンティティを空洞化させる、別の地獄の入り口かもしれない。
自己を統合する方法
私は、高1のときにアイデンティティの危機に陥った。ここでは言わないが諸々の事情があった。「頭いいキャラ」は剥奪され、人生の目的もなかった。とっても憂鬱だった。当時は他者の目をよく気にしたし、逆に奇行に走ったりもした(笑)。
その後どのようにして立ち直ったかについて、ふと考えた。幸い私は軽い鬱で済んだが、今振り返ると、精神の健康を取り戻すにはやはり外部からの助けが必要なのだと思う。私の場合、第一は「諸々の事情」が解決したこと、第二は友達ができたことだった。
『承認をめぐる病』という本には、精神の安定には内省・行動・コミュニケーションの3要素が必要だと書かれていた。『幸福論』には、つらいときほど自分の外を目指せと書かれていた。どちらも同じことを述べている。内に閉じこもればこもるほど、”分裂”は進む。だから外を目指せ、と。
しかし難しいのは、つらいときに外へと働きかける意志が湧かないことだ。他人を気にする余裕はない。偶然を待つしかない。
『承認をめぐる病』によると、承認にまつわるコンプレックスを解消するには3つの方向性がある。
①他者からの承認とは別に、自分を承認するための基準を持つこと②他者への承認を優先すること。③承認の大切さとほどほどに付き合うこと。実行は難しいかもしれない。しかし指標にはなるはずだ。
信頼できる他者と出会う、逃げ道を見つける、自分を偽らない居場所をつくる、状況が好転するのを待つ。たとえ絶望の中でも、そうした回復の契機は突然訪れるかもしれない。これは理論ではなく、私の願望だ。
結び
さて、今回は「表層の演技」をテーマとして、『まなざしの地獄』と『引き裂かれた自己』を読んだ。『まなざしの地獄』は、N.Nを起点として、都市というまなざしの地獄について書かれていた。『引き裂かれた自己』は、精神病に至るプロセスが内的自己と外的自己の分裂であることを示していた。
安定した自我を保つことは難しい。表層を演技することで人は一時的に世界へ適応できる。しかし、その代償として深層の孤独はむしろ深まっていく。このループを抜けて安定した自己を獲得するには、外部との生きた接触が必要だ。それこそが唯一の希望である。
これが今回の結論めいた結びだ。安定した自我を獲得する試みは、跳ぶ意志にゆだねられている。結局、誰もあなたを定義することはできないのだから。
(裏話をすこし。今回、2冊を同時に紹介する試みははじめてだったが、実は、裏で思わぬ計算違いが起きていた。この2冊は「表層の演技と深層の孤独」というテーマで深く重なると予期していたが、その分裂の仕方は似て非なるものだった。記事の内容も大きくずれた。でもだからこそ、より一層思考が深まった。今後もこの取り組みは続けていきたい。)
これでおしまい。ありがとうございました。


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