斜陽の朝 『斜陽』再読

『斜陽』をもう一回、読んでみる。太宰のなかで最も好きな小説の一つ。やはり、文章が美しい。

再読すると、多くのことに気づく。その気づきが今回のテーマだ。(今回は「斜陽」既読者に向けた記事だから、ネタバレを大いに含むことをご了承いただきたい。)

目次

聖と俗、母と私、蛇と蝮。

かず子は、まむしと間違えて蛇の卵を殺してしまう。それを見ていたお母様は、以降、極度の蛇嫌いになってしまう。蛇と蝮は何を表してるのか。

ああ、お母様のお顔は、さっきのあの悲しい蛇に、どこか似ていらっしゃる、と思った。そうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇を、いつか、食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、そんな気がした。 p.20

物語中ででてくる、美しく物憂げでほっそりした蛇は、お母様にあたる。かず子はその蛇の卵を、殺してしまうのだ。そして自分を、母蛇を殺してしまうような、いやらしい蝮だと感じるようになる。実際、物語が進むにつれて、「私」の心に巣食う蛇は、蝮に変わっていく。

なんだか自分の胸の奥に、お母様のお命をちぢめる気味悪い小蛇が一匹はいりこんでいるようで、いやでいやで仕様が無かった。(p.18)

こないだ差し上げた手紙は、とても、ずるい、蛇のような奸策に満ちていたのを…(p.100)

上品な母蛇は、お母様みたいだ。かず子の心境変化は、お母様のような上品さが世俗的な下品さに置き換えられることを、蛇の卵が蝮に殺されることに喩えた、と考えるべきかもしれない。

かず子は、昔は貴族の暮らしをしていたが、伊豆に引っ越し、農作業をするようになる。上原への手紙で、「だんだん動物的になっていく」ようだと告白している。それが蝮になるということではないか。

母は、ガラッと旧来の秩序と道徳が変わる時代に、最後まで純粋な貴族であり続けたのだ。「私」は変化を拒まなかった。だから「私」は生きて、母は死んだ。そういう解釈はどうだろうか。

直治と夕顔

個人的な話になるが、私は『斜陽』のなかで直治が一番好きだ。民衆と貴族のあいだで揺れ動き、下品にはなりきれずに、ひとり、死んでいく。一番、人間味があると思う。(治という字が入ってるから、太宰にとっても一番思い入れのある人物だったんじゃないかな?)

直治は、貴族の家に生まれたために、高校で交わるようになった「民衆」に対する引け目を感じていた。自らの血を憎んだ。

そう思うと、「爵位があるから、貴族だというわけにはいかないんだぜ。」という発言は、コンプレックスの裏返しと取れるんじゃないかな。

ずっと、下品な口調であろうと努めた直治が、死に際に「僕は、貴族です。」と遺して死んでいくのは、あまりにも切ない。

『「人間は、みな、同じものだ」と人は言う。どうして、「人間は、みな、優れている」と言えないのか。』

「大衆」に貶められる前に、自分も「大衆」に混じってしまおう。まるで酸っぱいぶどうみたいだ。しかし彼は上原の妻に恋をしてしまった。

彼の失敗があるとするなら、この乖離、距離だったのだろうか。

再読して痺れたポイントがある。遺書の最後。

夜が明けて来ました。永いこと苦労をおかけしました。
さようなら。
ゆうべのお酒の勢いは、すっかり醒めています。僕は、素面で死ぬんです。

夜=俗な世間。昼=純粋無垢な尊い世界。

直治は昼にも、夜にも染まり切れなかったのだろう。だから最期に、世間の狂騒=酔い=宵から醒めて、死んでいくのだ。

夕顔は、昼には咲けないから。

(私が『斜陽』で一番好きな言葉。「不良でない人間があるだろうか。」「とにかくね、生きているのだからね、インチキをやっているに違いないのさ。」という直治の言葉。「不良とは優しさのことではないかしら」というかず子の言葉。私はここがすごく好きだ。軽くなれる。)

M.Cについて

上原に、かず子がつけた別称、M.C。イニシャルそのままに、M.Cの中身は変わっていく。それの考察。

M.C=マイ・チェホフのとき。
チェホフは有名なロシアの劇作家。チェホフは有名なロシアの劇作家。上原を作家として、その才能に惹かれて恋していたのだろう。

M.C=マイ・チャイルドのとき。
『私は作家に恋しているのではありません。マイ、チャイルド。』とあるように、かず子が恋をしているのはもはや「憧れ」の作家ではない。チャイルドの含意は、上原との子供が欲しいことの反映か、あるいは、上原の世間の欺瞞に対する反抗を反抗期みたいだと感じているのか、だと思った。いずれにせよ、上原は憧れから等身大へと、扱いが引き下げられている。

M.C=マイ・コメディアンのとき。
別れの告白だろうか。上原に会いに行った時にはもう、「私のその恋は、消えていた」のだ。上原も結局は貴い犠牲者で、かつて恋したような輝きはもはや無い。結局のところかず子は、恋に恋していたのではないだろうか?その恋が、ドラマチックなものではなく、ただ、現実の延長線上にあったことにきづいて、上原もただの軽薄な喜劇の役者だと返したのだろう。

過去の思い出を懐かしむかのような儚さと切なさを、私は「コメディアン」から感じた。

最後に、かず子と上原のすれ違いで最も印象的だったシーンを。

「私、いま幸福よ。四方の壁から嘆きの声が聞えて来ても、私のいまの幸福感は、飽和点よ。くしゃみが出るくらい幸福だわ」
上原さんは、ふふ、とお笑いになって、
「でも、もう、おそいなあ。黄昏だ」
「朝ですわ」
弟の直治は、その朝に自殺していた。

道徳の過渡期、進みゆく革命の、尊い犠牲者。本人から見れば悲劇でも、革命後からしたら喜劇にしか見えない。自分たちの滅びを、そんな目線でかず子は見ていたのだろうか。

終わりに

今回の考察の大きな軸となったのが、昼と夜について。

昼と夜、聖と俗、という二項対立が根底にあると私は思う。

かず子は、昼から夜へと変わっていく。母は昼のままに死ぬ。上原は、夜の世界で朽ちていく。直治は、夜に染まりながら昼に憧れ、夜明けとともに死ぬ。

昼と夜のストーリーがぼんやりと交錯する時間帯。だから『斜陽』なんじゃないだろうか。そんなことを、ふと思った。

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