実存主義と構造主義の決定的差異について。

構造主義と実存主義の違いはたくさんある。自由意志を重んじるか否か、など。しかしそれらの教科書的説明は、昔からいまひとつしっくり来なかった。

たしかにそれは分かりやすい説明ではあるけど、例えばソシュールやレヴィ・ストロースが自由意志を認めてなかったわけじゃない。

また構造主義のありがちな説明に、「人間の価値観がシステムのなかで形成されるという考え」、というものがある。しかしそのイデオロギー的認識は、構造主義以前からも存在していた。相対主義とか、「神々の永遠の争い」とか。構造主義の新しさは、社会が人を規定すると唱えたところにあるのではない。

例えば、サルトルなどは実存主義者の代表格と目されているが、その歴史認識においては構造主義的である。

だから。時代的に隣接している実存主義と構造主義に、決定的な一線を画すこと。それこそが構造主義や実存主義を理解するために必要なのではないか。

そんなことを考えた。

目次

結論

そしてさっき気づいた。

構造主義と実存主義の差異の本質は、構造主義は意味に実体を認めず差異関係だけを認めるが、実存主義はそれでも関係に還元されえないものがあることを認める点だ。この依拠している意味論の違いによるものだ。

もう少し詳しく言おう。構造主義は、意味を「差異の体系」として考える。差異は必然的に他のたくさんの要素との力関係で成立するものだから、全体で捉えなければならない。全体のなかでの微妙なバランス関係の総体でこそ、ある要素の位置が確定されうる。だからこそ、構造主義は、差異の構造=全体のシステム、という視点を非常に重視する。(そしてだからこそソシュールが元祖たりえた)。一方で、実存主義は、システムに左右されないものの存在を考える。他の要素から独立した「何か」がそれでもあると考える。

これを踏まえると、「自由意志」などの他の問題は、全てこの視点から説明できる。

さっきの考えの、”意味”に自由意志を代入すればよい。実存主義は端的な自由意志を認めることになる。構造主義は、その自由意志すらも他者との関係のなかで全て定まるものと考える。

構造主義は、構造の普遍性を説くことがある。それも、構造主義が「独立変数」を認めないからこそ、であったりする。

サルトルは、自由が状況のなかでしか実現されえないことや、人々の意識は歴史的状況に内在することを的確にとらえていた。しかしそれでも彼が実存主義者とされているのはなぜか?それは、彼が「それでも最後の決定の審級は、人にある」と信じていたからだ。人間の意志を、構造の構造以前的前提として、構造の外部として、彼が主張したからだ。

構造主義と実存主義の決定的な違いは、自由意志の有無などではなく、すべての「意味」や「主体」を他との関係に還元できると考えるかどうかにあるのではないか。

こう捉えれば、諸々の混乱はスッキリするのではないだろうか。

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