意味はどこに行ったか。(20世紀意味論の変遷)

言葉は、対象を指す記号だと思っていた。しかし高校生のとき、どうもそうではないらしいと知った。「意味は差異である」。「意味は記号間の循環参照から生まれる」。自分の思考のフレームが揺らいだ。そして意味論、「どのようにして意味は成立するのか?」という問い、に焦がれた。

意味論がなにに役立つのか?ある意味では全く役に立たない。

しかし一方で、世界の見え方がまるっきり変わってくる。

「愛」はどうして愛を意味するのか?「生きる意味」なる「意味」は、どんな前提によって成立するか?その「意味」に根拠はあるか?

最近になってようやく、感覚として意味論がわかるようになった。そのとき、自分はすでに頭の芯から「意味論的」な人間になっていたことに気づいたのだ。

今回は、20世紀哲学・現代思想における、意味論の移り変わりを書きたい。だからこれは主観的な記事だ。私が高校生のときに圧倒された「意味論」を、乗り越えるための記事だ。

まずは言葉が意味を写し取るという素朴な考えから始める。次に構造主義。言葉は言葉どうしの関係のなかで意味を生むという考えに触れる。最後に、意味を運動のなかの宙ぶらりんに見出した「差延」という考えに迫る。何も知らない人でも楽しく読めるように書いたつもりだ。

目次

言語は対象を写し取る

まずは、もっとも素朴で自然な考えから始めよう。「言葉は、対象を写し取る記号だ」という考えだ。「いちご」という言葉は、あの赤い果実を指す。この言葉があることによって、目の前にいちごがないときでも、「いちご」を指示することができる。「昨日いちごを食べた」「いちごを食べたい」という文章は、目の前にいちごが無くても、相手に意図が伝わる。言葉は、現実の事物と対応する、コミュニケーションのための便利な記号である。

この考えはすごく自然だ。日常生活を送るうえでは必要十分な、有用な定義ではある。

でも、足りないのだ。何が足りないか?この考えでは、「民主主義」「愛」「国家」「自然」「現実」「世界」といった抽象的な観念を説明することができない。

現に、この考えを「言語の写像モデル」として定式化した哲学者にヴィトゲンシュタインという人がいた。彼も、抽象観念を原理的に説明することを放棄した。いや、もっと正確に言うと、彼は「抽象的な言葉を正確に定義することは無意味である」と批判するために、言語の写像モデルを持ち出した。曰く、「愛とは何か?」「正義とは何か?」という哲学的な問いは、全て、現実の事物と対応しない記号である「愛」や「正義」について論じているので、どんな答え方をしても真偽を確定することができない。だから、全ての哲学は無意味だ、と批判した。

確かに、正しい。これまでの人類史で見ても、「愛」や「正義」の意味について、全員の解釈が一致したことは決して無かった。言葉は現実の事物と対応するものであり、対応しない言葉について論じることは無意味である。強い意見だと私は思った。

でも、それでも、実際に私たちは「正義」や「愛」を語ることを止めない。「正義」のために戦死する兵士がいる。「愛」を信じているカップルがいる。「意味が無い」と言われても、その言葉は使われ続ける限りで、どうしても現実に働いてしまう。つまり「意味が不確定」の言葉が、「意味を持ってしまう」のが、私たちの現実世界なのだ。

ならば、対象の具体・抽象を問わず、意味を生み出す構造がどこかにあるはずだ。そしてその説明は構造主義が与えてくれた。

(cf.前期ヴィトゲンシュタイン、『論理哲学論考』)

意味は差異である

続く構造主義者たちは、意味は記号の差異として生まれると考えた。どういうことか。

具体例から行こう。「緑色」と「青色」という言葉がある。しかし色としての緑と青は、そもそもちゃんと分けられる実体なのだろうか?私たちは緑色を「青信号」と呼ぶ。緑色の野菜を「青菜」と呼ぶ。緑の海苔を「青のり」と呼ぶ。そもそも青と緑を区別しない言語もあったりする。

ここから言えることは何か?青と緑、というのは言葉のうえではカテゴリー分けされている。しかし実際には、カテゴリーの実体的な「本質」は存在しないのだ。「青」は、「緑」という対立する記号が存在することによって、相対的に区別されているに過ぎない。

「裏面」だけで「表面」が無い紙が存在しないように 、言葉の意味は、他の記号との差異としてしか存在しない。(だから「たった一つの言葉しか持たない言語」は存在しない)。

日本語には、蝶、蛾、という言葉がある。だから私たちは、あれは蝶でこれは蛾、と日常的に区別できる。フランス語には、それぞれに対応する言葉は無い。どちらも「パピヨン」だ。フランス人にとって、「蝶」「蛾」というカテゴリーはそもそも存在しないのだ。

「蝶」というカテゴリーは「蛾」というカテゴリーの存在によって生まれる。同様に、「蛾」は「蝶」のおかげで存在する。「蝶」と「蛾」は記号間の差異として同時に生まれる。

「何と何を区別するか?」「何と何を同じとみなすか?」が言葉の本質である。だから言葉は、異なるモノに異なる名前を与えて区別しているように思われるかもしれない。しかし実際はそうではない。異なる名前が「何か」に与えられることによって、「それらは異なるモノだった」ということに(遡行的に)なるのだ。

だから、裏と表は同時に生まれる。

つまり。意味の本質は記号間の差異である。モノがあって名前が付けられるのではない。名前がつけられることによって、混沌とした現象が、モノとして指定されるのだ。だから、私たちの現実は、言葉と同時に、発生している。

こうして言葉を記号間の差異によって定義することで、構造主義は「言葉を対象を写し取るもの」として定義するような「指差し論」に固有の問題、「抽象的で想像上の言葉をどう定義するか」という問題を解決した。しかしその構造主義的言語学も、実はまだ不十分だった。それはやがて、ラカンやデリダによって改造されることとなった。

差延ー意味は永遠に完成しない

構造主義は、意味が記号同士の差異によって生まれることを示した。それは正しい。

しかしデリダは、一つ疑問を投げかける。その差異は、いつ完成するのだろうか。

たとえば「愛」という言葉を辞書で調べる。そこには「思いやり」「献身」「情熱」などと書かれている。では、「思いやり」とは何だろう。
さらに辞書を引けば、また別の言葉によって説明される。そしてその言葉もまた、別の言葉へと送り返される。意味は、いつまでも別の記号へと送り返され続ける。

私たちは「もう分かった」と感じる瞬間はある。
しかし、その「分かった」は、究極の定義へ到達したからではない。どこかで探索を打ち切っただけなのだ。

言葉の意味は、記号間の差異として初めて成立可能になる。私たちが実際に「言葉を知る」過程では、しかし記号同士のネットワークを順々に辿ってく過程が欠かせない。そして辿っていくうちに、意味はまだわからない、まだわからない、……という「延期」を無限に経る。そして記号同士の関係性をなんとなく学ぶことで、おぼろげに意味を掴む。言葉が日常的に問題なく使える限りで、私たちはその「意味の不確実さ」を放置している。

意味とは、「どこかに存在する本当の意味」ではなく、終わることのない参照運動そのものなのである。

デリダは、この「差異」と「延期」を合わせて
差延(différance)と呼んだ。

意味は、それを追う私たちから、無限に逃げ続ける。デリダの思想が確信的だったのは、構造主義者達が意味を成立させる「差異の体系」を1つの完結した記号関係と捉えたのに対して、その「差異の体系」は不完全で未完結であることを見抜いたからだ。

意味は決して完成しない。

完成しないからこそ、私たちは言葉を使い続けることができる。

意味とは、記号同士が互いを支え合う自己準拠的システムの効果である。その点で、意味とは宙吊りにされたトートロジーである。

そして

ここまでで、20世紀の意味論をすごく大雑把に辿ってきた。

構造主義は、「意味の実体」を解体して、記号間の差異に意味を見出した。しかしその「差異の体系」は未完結であること、意味が永遠に完成しないことを差延が説明した。

難しかったかもしれない。しかしこれは、ただの抽象的な議論ではない。私はそう言いたい。

生きる意味は何か?という問いを考える。その答えは、美味しいご飯、熱い風呂、金、将来の繁栄、未来世代の子供たち……といった他の記号へと先送りにされる。

それらの「意味」には、最終的な根拠となる絶対的な言葉が存在しない。全ての意味は宙吊りで、互いに互いを前提として存在している。生きる意味、が完成することはありえない。

ここを以て諦めとするか、は人次第であろう。だが、だからこそ軽くなるものがある。高校生の私はそう感じた。

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