無感動の弁護 ー『関心領域』

『関心領域』という映画を見た。特に何も感じなかった。

アウシュビッツの隣で暮らすドイツ人将校家族の話だ。静かなカメラワークで穏やかな生活がひたすら写される。奥から「ノイズ」が聞こえ、塀の奥からは煙が見える。突如として川が濁る。そんな出来事はありつつも、一家は幸福そうだった。

この映画はタイトル通り、ユダヤ人虐殺に無関心だった人たち=聞こえていながら無視し続けた人たちの、フレームを写す。

「虐殺の非道さ」を語ることは容易い。しかし、私はここでは正直に書かねばならない気がする。

正直、大して何も感じなかった。共感性の欠如かもしれない。

でもむしろ、私は、この映画を見て泣く人の方が嘘なのでは無いだろうか?と思った。むしろこの映画は感情的に消費させないように作られたのではないだろうか?

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感動と罪

監督がその気になれば、「シャワー室」と幸福な家庭を交互に映して、「関心領域」の「残酷さ」を簡単に示せた。その手法があえて使われなかったことには相応の理由があると私は思う。

「観客を泣かせないため」「感情的に消費させないため」だ、と私は思う。

なぜ泣かせたらダメなのか?それは感情がしばしば自己完結するからだ。泣けたあなたは、とても優しい。あなたは間違っていない。そうして確認されるのは、「私」の感情と立場の正しさだ。

泣いたり感動したりする観客は、映画の出来事を見ているようでいて、実はスクリーンのこちら側にいる。泣いて、驚いて、感動する話は、カタルシスの道具になり、「安全な悲劇」になってしまう。

アンチクライマックスな「関心領域」を通して、観る人は無感動でいることを強いられる。その無感動は、観る人に居心地の悪さを残す。「犠牲者のことを思って涙を流すべきだ」という規範と、「泣けない私」のズレを感じる。泣いてスッキリの映画よりも、その方が遥かに印象に残るはずだ。

そしてその後に気づくのだと思う。「犠牲者のために泣く」ことだけがあるべき姿ではないのだと。

静かなカメラワークも多分ここに繋がっている。誰にも感情移入をさせまいとする、この映画の意思だと思う。

映画後半の、掃除をする施設職員は、淡々と作業を進めていた。

無知と無関心

二次大戦のドイツには、ヒムラーという人と、アイヒマンという人がいた。

アイヒマンは、虐殺の効率化を進めた人だ。当然ユダヤ人から恨まれて、戦後に国際法を無視した手続きによってエルサレムまで拉致されて裁かれた。アイヒマンは極悪人だと思われた。だが、実際は少し違った。彼はただの無思想な役人にすぎなかった。上からの命令に従って、「業務改善」として効率化を進めたにすぎなかった。彼の罪は、何も考えなかったことだった。

ヒムラーという人がいた。ナチスの親衛隊長だった人だ。彼は虐殺を計画・指揮・執行した。彼は、公開処刑を見て気を失い、自身の命令したガス室での殺害の様子を覗き穴から見て嘔吐した、と言われている。Wikipediaを読むと、その矛盾した性格がわかる。ちなみに、幼い頃は「虫一匹殺せない優しい子」だったそうだ。

無知は罪だ。無思想は罪だ。でもそれなら、映画も同じだ。

感情的に消費することは、「ここで笑ってください」「ここで怒ってください」「ここで泣いてください」という筋書きに従うことと何が違うのか。カタルシスに乗っかることと等しいのではないか。気分すっきりではあるけど、あとに残るものは何もないのではないか。そうして敵/味方を分節することは、「迫害者」の心理と結局変わらないのではないか。

アイヒマンやヒムラーは虐殺が起きていることを(知識として)知っていた。しかし同時に彼らは(感覚として)知らなかった。それは無意識の不断の努力によってなされたものだろう。無意識は、人間が意識することのできない脳の機能である。私たちは、無意識によって自動で整理された情報だけを「知る」ことができる。彼らも、ドイツ市民も、不都合な情報の断片をフィルタリングすることで、「私は自分が知っているということを知らない」状態に保っていたのだ。

しかしフロイトが言う通り、「無意識は回帰する」。『関心領域』の男が、最後に嘔吐するのは、まさにこの無意識の回帰のせいなのだろう。無意識下で意識の外に追いやった不快な情報が堰を切って急にあふれ出した結果だろう。だがそれは無意識の水準で行われることだ。男はなぜ自分が吐いているのかも決して気づかないだろう。

この映画は私を感動させなかった。棘を残した。

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