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『月に吠える』MV考察


——獣の遠吠えは、月に届くのか

わたしはこの曲がすごく好きだ。落ち着いた曲調と、どこか不穏でミステリアスな世界観がいい。今回はこの曲の「影」を少しだけ照らしてみたい。

「月に吠える」は、口語自由詩の確立者として知られる詩人、萩原朔太郎の詩集の名でもある。この楽曲はそれを下敷きにしている(※以降、詩集の方を『月に吠える』と表記する)。

わたしは世界観まで踏み込んだちゃんとした考察が欲しかった。でもネットでは見当たらなかった。だから自分なりの解釈・私的解説を書くことにした。詩集を読み解説書を読み、3ヶ月。ようやく自分なりの読解にたどり着いた。この曲の魅力を多くの人に知ってもらいたいとわたしは願っている。

もちろん解釈に正解はなく、異論は大歓迎である

背景:「ぬすっと犬」

最初にこの曲のイメージと強く重なる詩を引用する

悲しい月夜

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる、
波止場のくらい石垣で。

いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。


犬は月に吠える。それは嘆きであり、敗者の遠吠えだ。ヨルシカの主人公もまた「ぬすっと犬」である。MVで宝石や月を盗むのも偶然ではない。哀れで卑しい盗人。娘たちはそれを嘲笑う。

ただしこの曲はそこで終わらない。負け犬の遠吠えがやがて現実を変えてしまう。わたしはここにこの作品の核心を見出した。

この曲のテーマをもっと掘ろう。「他者を不気味なものと捉え、コミュニケーションが不器用で孤独な男が、葛藤を経て世界をつかむ物語」だとわたしは思う。

1番:孤独と虚勢

路傍の月に吠える
影一つ町を行く
満ちることも知らないで
夜はずっと深くまで

気がつけば人溜まり
この顔を眺めている
おれの何がわかるかと
獣の振りをする

主人公の男(以下、男)は孤独である。

「満ちることも知らない」欠落の感覚。しかし彼はそれを認めない。むしろ獣のふりをして他者を拒絶する。

「おれの何がわかるか」
これは防衛機制だ。傷つかないための虚勢だ。「酸っぱい葡萄」型の倒錯が働いている。どうせ手に入らないのなら、「あえて手に入れなかった」=「拒絶」を自分で選んだことにしてしまえばいい。

また「人溜まり」は「人黙り」とも読める。吠える自分と、沈黙する他者の対比だ。周囲から反応が無いことに憤り、蔑まれていると感じて、男はより一層孤独を深める。「この顔を眺めている」は、過剰な自意識・被害妄想のようだ。

つまり男は、孤独であるだけでなく、世界からズレているのだと思う。

一切合切放り出したいの 生きているって教えてほしいの
月に吠えるように歌えば嗚呼、鮮やかに
アイスピックで地球を砕いてこの悪意で満たしてみたいの
月に吠えるように歌えば 嗚呼、我が儘に、お前の想うが儘に

男は、今の自分の姿に嫌気がさしている。

今の自分の全てを放棄したい。満ちるを知らず、生きていることの実感がわからない。他者と繋がっていたい。

それは彼が孤独だからだ。1番のサビでは女性にフラれている。男以外の人々は、だいたいカップルや女性で、彼は劣等感を感じていたのだと思う。

周囲が不気味さで溢れどうにもならないからこそ、男は全てを「想うがままに」したいのだ。「想うがままにする」≒「悪意で満たす」である。自分ではどうしようもない、うまく溶け込めない世界に対するシャーデンフロイデのような欲望ではないか。

獣。野性・野蛮。本音・欲望を飢えた獣に例えているのだろうか。だとすれば闘牛は生の欲望を抑圧していることをシンボリックに表している。

過去は私にとつて苦しい思ひ出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であつた。
月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。
私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。  ー『月に吠える』
目次

2番:獣と顔なし

青白い路傍の月
何処だろう、と人は言う
誰にも見えていないのか
この醜い獣

指を差した方へ向く
顔の無いまま動く
何かがおれを見ている
波止場のあの影で

「この醜い獣」。これは他人には見えない。彼にしか見えない。つまりこれは外部の存在ではなく、彼自身の内面(本音・欲望)だと考えられる。

対して周囲の人間は「顔がない」。

獣=本音・野性 / 仮面=建前・社会性
この対比が成立する。彼は気づいてしまったのだ。他人が「空虚な存在」に見えるという感覚に。だから彼は溶け込めない。同時に、その感性ゆえに孤立する。

一切合切信じていないの
誰もお前に期待していないの
月に吠えるように歌えば嗚呼、鮮やかに
硬いペンを湖月に浸して波に線を描いてみたいの
月に吠えるように歌えば嗚呼、艶やかに
時間の赴くままに

ここで流れが変わる。「波に線を描いてみたい」。ここで初めて破壊衝動が創作衝動へと昇華される。(『月に吠える』と重ねるなら、創作=詩作になるだろう)。

地球を砕く → 世界を作り直す
否定 → 表現

朔太郎が詩に救われたように、男もまた「表現」によって生き延びる。孤独によって内に向いた意識を、一気に外部へと解き放つ。

ああ みんなおれをかわいそうな病人と そう思っている

そのまま受け止めたら、ただのコンスタティブ(記述的)な文であり、それ以上のものではない。

しかしわたしは括弧で省略された部分を想像してしまう。「みんなそう思っている(でもほんとうはそうじゃない!)」と。そう考えたとき、この文章は二番の転回と対応する。他者とわかりあえず嘲笑されている「おれ」は、ついにその自己像を捨てられるようになったのではないか。

「かわいそうな病人」宣言は、「おれ」が「おれ」として羽ばたく瞬間かもしれない。

まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

ー「猫」 『月に吠える』より

3番:温いスープと盗む月

一切合切放り出したいの
ま、まだ世界を犯し足りないの
月に吠えるように歌えば、嗚呼鮮やかに
アイスピックで頭蓋を砕いて温いスープで満たしてほしいの
月に吠えるように歌えよ
嗚呼、喉笛の奥に住まう獣よ
この世界はお前の想うが儘に

最大の変化はここ。1番では「アイスピックで地球を砕いてこの世界を悪意で満たしてみたい」(能動)だったが、3番では「アイスピックで頭蓋を砕いて温い満たしてほしい」(受動)となっている。つまり彼は初めて、自分の孤独を世界に対する憎しみへと転化していた自分の存在を認める。そうしてはじめて自分の欲望を正直に認める。

「温いスープで満たしてほしい」。これは孤独の解消への欲求だ。

喉笛の奥にすまう獣。獣は、心の野性=本音のことだろう。

さらに重要な変化がある。これまでの歌詞は『月に吠えるように歌え「ば」』という、仮定形だった。しかし3番では『月に吠えるように歌え「よ」』という命令形になった。コミュニケーションにとまどい、獣を演じてきた男が、ついに正直になったのだと思う。「ま、まだ」も、その変化に適応しようとする男の戸惑いだと思う。

彼はようやく理解する。自分が欲しかったのは破壊ではなく、関係だったと。

結末:月に届く遠吠え

路傍の月に吠える

一番最初と同様に、「路傍の月に吠える」ことでこの曲は終わる。しかしその心情は全く別のものだとわたしは主張したい。

最後に彼はマントで「月を盗む」のだ。

最初の遠吠えは嘆きだった。届かない月(他者?)に対するあきらめだった。だが最後の遠吠えは違う。それは達成であり、肯定である。自分の他者と繋がっていたいという欲望を肯定する遠吠えなのだ。同じ「月に吠える」でも、意味は完全に変わっている。

明らかに手のメタファーだ。

結論

ヨルシカは神! …と、雑に締めたいところだが、この曲の本質はもっと静かだ。

この曲を一言で言えばこうなる。「孤独な獣が、創作によって世界を奪い返す物語」だ。獣の遠吠えは、月に届くのか。その問いに対する一つの答えがここにあると、わたしは思った。

もちろんこの解釈が正しいとは限らない。だがそもそも「正解」とは何か。それは単に、他人と解釈が一致することに過ぎない。作者本人が正解を専有するわけでもないのだから。わからない。だからこの曲はおもしろい。何度だって聴けるから。

これで終わりではあるが、最後にひとつ、あなたの解釈も聞かせてもらえたらうれしい。

あなたにとって、獣とは何か? …当然、答えはない。

小ネタ①:犬

ヨキ ネコ、ワロキ イヌ。

明治の国定教科書中の言葉である。当時、犬は群れを成して悪さをする、農村の嫌われ者であった。そのような除け者の自覚が、「おれ」の自己イメージだ。朔太郎も、この教科書で教育を受けた。そのイメージが月に吠えるの根底にあったのかもしれない。

当時、犬と言っても2種類あった。飼い犬と、野犬だ。いうまでもなく、主人公は野犬だ。飼い犬≒文明、野犬≒野性だ。朔太郎は、同級生の野蛮を呪い、そうすることで辛うじて文明に留まろうとする自分を見つけては自己嫌悪した。この曲でも、外界への嫌悪が、自分の内側と外側への2つの方向に呪いをかけている。

小ネタ②:影

このMVを通して影がものすごく大きな意味を持っている。影はどんどん変化する。影は男への視線を向ける。

実は、萩原朔太郎、幼少期は影におびえて暮らしていたのだという。ランプの焔の影が揺れるのにさえ驚いた。父にランプを買ってもらって不気味な影を退けた、そんな話が残っている。

この曲において影が映りゆくのも、単に男の想像の豊かさを示すのではなく、影の奇っ怪さを踏まえてのことなのだろう。

ちなみに、男の影は最初「舌を出したラクダ」だったが、最後には「舌を出していないラクダ」になっている。欲望の乾きが少しは癒えたことを暗示する。

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